~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
幻 妖 (二)
翌日、西八条に参集した朝臣、公卿あまたは、いまは一壺の骨片と化した入道相国の納まった錦襴に包まれた遺骨箱の祭壇に焼香して、日暮まで人の波は絶えなかった。
ようやくそれが終わったその夜は、血族家臣だけの夜伽がある。明日早朝には遺骨は故人の愛着した福原に運ばれて、その地の和田の笠松のほとりの八棟寺の地域に納骨される。
父の骨の西八条にとどまるのは今宵限り、明日から福原の地下に埋もれる・・・と思うと灯火明るい下でも、姫たちの心は昏く沈みがちだった。
── 廻廊のあたりにざわめく気配がしたと思うと、この館の宰領弥五左老が夜伽の上座に端然とする時子の前に、気ぜわしげに進み出て膝をつき、
「ただいま、当今とうぎん、御母后お成りでございます」
言上する声に一座はみな膝を正し、時子は上座をしりぞいてわが娘ながら国母とそしてわが孫ながら幼帝安徳天皇を謹んでお迎えする。
九重の雲の上におわす母后は父の訃にこの宵ようやく西八条へお成りだった。
高倉上皇崩御はこの一月の十四日である。中宮徳子はその裳に服して籠もられる最中、幼帝も父上皇の喪に入られてまもなくに外祖父清盛の死であった。喪中は公式の外出はなされぬ。今宵は夜を待たれて、ひそやかにお忍びの御幸であった。
帝は鈍色にびいろの喪装、母后は薄墨色の藤衣ふじごろも、お供は阿紗伎である。祭壇前まで平時忠が御先導する。
上皇崩御のあとはこの世で杖とも柱とも手頼たよられるはずの父清盛を失われた母后のお気持ちはどうであろうかと、夜伽の座に居並ぶ四人の姉妹は胸をつかれる。
思いなしか御焼香のお手がかすかにふるえていられると見る。幼き帝の小さな御手が合掌の形をとられると、一座の女人たちが声を抑えてむせび泣く。
その哀しい焼香をすまされると、お忍びの御幸ゆえに直ちに還御、そのお通りすがりに一同平伏するなかで、四人の姉妹の前で母后はかすかに会釈される・・・もし叶うことならこのはらからと抱き合って泣きたいと思召されるかと母の時子は眼をしばたく。
廻廊のきざはしまでのお見送りも時制し忠はて、近衛府の随身の警護の中で帝をお膝に抱かれた母后の牛車はひそやかに西八条の総門を出られた。
そのあとは夜伽の座はさらにうち沈んでしまうのを紛らすように男子側は酒肴、女性たちには、茶菓子が運ばれてくつろがせる。
典子は隣り合わせてならぶ姉の佑子に声を低めてささやいた。
「さきほど弥五左が慌てて現れた時 ── またあの二人の知らぬ女人が参ったかと思いましたら、帝と御国母でございましたね」
それはあの昨夜、父の柩が閉められる直前を弥五左が押し止めて、そこへ忽然と二人のうら若い女性が出現して柩にとりすがってよよと泣いたからである。その印象を強くとどめた典子だった。彼女は今日も弥五左にその件で質問したかったが人前ではさすがに憚られたのである。ともあれ弥五左に丁重に扱われた女人はおろそかならぬ人と思った。
「あのお方二人はわたくしどものまだ見ぬ妹でございました」
佑子は典子の耳もとに顔を向けて告げた。
「えっ、それをどうして御存じ?」
思わず典子の驚く声は高かったが、幸い一座は男子側の酒肴にやや賑わって典子たちの会話は目立たぬ。
「阿紗伎から聞かされた汐戸が昨夜邸へ帰ってから申すには、まだうら若い方は厳島の内侍を母となさる御小姫君にて、つい先日法皇さまの御所の局に入られたとか・・・」
典子は呆れた顔である。御所に仕えるのもおそらく亡き父清盛の配慮であろうと察する。
「それから少し年齢とし上らしい方は常磐を母となされる廊の御方、今は時忠叔父君のおはからいで、いずこかに身を寄せていられると聞きました」
佑子はあまり委しく語りたがらぬ。汐戸からはもう少し委しく耳に入れたが。
折から円実法眼ほうげん(僧都と同格)とその法弟たちの読経の声が起きたので、姉妹の会話はそれなりになった。典子はもうそれ以上は亡き父のためにも聞きたくなかった。
佑子もまたこの話題を口にするのは心重かった。御子姫も廊の方も、西八条にはついに引き取られぬ恵まれぬ運命だったことが、わが身と引き比べて同情されるからである。だが西八条に引き取られぬこの異母姉妹には生母がはっきりしていることは羨ましくもあった。
八歳までその生母の許で育てられたと思われる。廊の方の生母常磐は大蔵卿長成の後妻となった。花山院に嫁いだあと昌子がその異母妹を憐れんで引き取ったが、かえって災いして裏切られた結果になったことも汐戸から昨夜初めて知ったのである。昨夜父の柩の出る前に、ふいに現れた彼女の姿に、きっと花山院北の方は感慨無量だったと想像すると、典子にそれを語ることは佑子の優しい気性として出来なかった。
その二人は昨夜実の父の顔を柩の中で見納めただけで、今宵の平家一族の夜伽には加われぬ悲しい“かくし子”なのである。
2021/01/21
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