~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
女 院 号 (二)
その眼の前に置かれる冷泉、七条両家の北の方よりの火災見舞いの二個の葛籠に平氏家紋の胡蝶が金箔で大きく描かれるのは、いずれも姫君入輿の折に持参の数知れぬ衣裳葛籠である。そのなかにはいまだに袖も通さぬ小袖こうちぎや小袖が満ち溢れておろう。
「これはまあなんと火災のおかげで思いがけなき衣裳の豊年、一同さぞかしもったいないと喜びましょう。でも残念ながら御両家北の方さまの華やかなお召し料では、この老女阿紗伎は身につけられませぬの、おお口惜しや」
と言うのを抑えて汐戸が、
「その御案じは御無用、この汐戸のとっておきの仕立て下ろしを、もしやお役にと持参いたして居ります」
「まあ、何から何まで」
喜ぶ阿紗伎に膝をすすめた汐戸は声を低めて、
「火の用心きびしき西八条奥の北の対のいずこに火の粗相がございましたか、合点がまいりませぬ」
「まことに怪しき不審火に思われます。いかに考えても火の気のあろうはずのない、あのよもぎの坪庭の簀子すのこの縁からあかり障子に火が付いたというよりほかに思えませぬ」
時子の好きな蓬ばかりを植えた坪庭は北の対に付いている。夏は風を通すために庭に向かって廂簾だけを垂らすが、ほかの季節には採光のために明障子をはめておく。
「えっ、あの蓬の坪庭から! あの小庭を掃除に入る雑色たちの為に外から目立たぬ切戸(くぐり戸)がございましたな」
と言う汐戸も長い御奉公で委しい。
「さよう、そこから曲者が忍んで火を付けたといたせば、西八条のようすを心得た者であろうが、と思うとぞっといたします」
阿紗伎の顔色のすぐれぬのは、そうした気味悪い恐怖感でもあった。
その君の悪さには、いま汐戸も安良井も肌がそうけ立ち言葉もない。
「昨夜、裏の雑舎のあたりを見まわれた弥五左どのが、その時白髪の髪を夜風に吹き乱した妖しき老女の姿をちらと見られましたそうな・・・どこか覚えのある顔であったが、しかとはわからぬと言われました」
汐戸にその刹那、ふっと過去のある場面が突然に浮かび出た。それは、今はなんともう十年も昔となる徳姫入内の夜、冷泉家に汐戸を訪れた、かつての徳姫の乳母小檜垣が入内じゅだいに召されもせず、西八条より永のおいとまの出たのを怨んで「この小檜垣一生平家一門への怨恨の鬼となって呪うわ、呪おうぞ!」と叫ぶなり髪振り乱して夜の闇に足もとをよろめかせて消えてゆく悽愴な光景がいまありありと瞼の裏に再現する。
彼女を西八条奥から追放するには阿紗伎や汐戸の進言もたしかにあったゆえ、もしや、と阿紗伎もまた弥五左も昨夜の放火犯人に思い当たる者があっても、この源平戦の最中に西八条に謀叛人忍び込んで火を放ったと世上に伝わるは平家の名折れと口をとざすと察して、汐戸も瞼の裏からおぞましい小檜垣の妖しい影を追い払った。
「何はあれ、入道さまの御遺骨福原へ渡らせられたあとの出火で、まずまずと二位さまもお胸をさすられたことでございましょう」
と汐戸が話を一転させると阿紗伎もうなずいた。
「今日、福原では御遺骨おごそかに鎮まられる日とて二位さまも御堂にお籠りでございます」
その邸内の堂内には先代忠盛の霊もまつられている。
「それでは、おさまたげせぬよう、わたくしどもおいとましてお邸で北の方とお香を焚きましょう」
汐戸は安楽井と共に座を立つのを大廊下の遣戸やりどの前まで見送る阿紗伎が、
「美濃六どのも福原の御埋葬までお供なされて御本望でありましょう」
と言うと、良人美濃六が清盛逝去後の落胆、哀傷のただならぬ打撃を知る汐戸は顔を曇らせて、
「あの人は、いっそこれから入道さまの御墓守で一生過ごされるがよいと申し合いました。あちらには孫の小六郎が門脇さまのお館に詰めて居りまするし・・・」
汐戸は本気でそう考えれいた。
2021/01/22
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