~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
母 の わ か れ (一)
養和二年(1182)の一月には京都に悪疫が流行した。昨年の凶作から貧しい者は体力衰えて、餓えるあまりに泥もなめたいような生活から様々の病菌のはびころのは当然だった。
困窮の生活から罪悪も生じる。洛中に空巣ねらい、強盗がふえて、火事場泥棒するために人家に放火する。田畑から一粒の穀物も得られぬ農民は草の根や皮を噛むから、子が生まれても母の乳は一滴も出ず、あちこちぼろ布に包まれた嬰児が棄てられて。
こうした情景はほぼ全国的で、この悲惨な人々の生活とはまったく無関係に、各地で源平は大小の戦闘を繰り返し、追いつ追われつして血なまぐさい風は吹きすさむ。そのたびに戦場の跡に戦死の武者のしかばねが置き棄てられて散乱すると、そのあたりの村の住民たちがその屍にむらがってさがすのは、遠征の武士が行軍中の携帯食として身につけたほしい(乾飯)の餌袋である。人はそれを争い奪い合って、一握りの糒に血相変える修羅の餓鬼道であった。
洛中はそれにもありつけぬ飢餓の人々が骨と皮だけの身を公卿の土塀にもたれて、あるいは加茂の河原に息絶えて陽にさらされて人間の干物になる・・・。
そうした情報を耳にするたびに、亡き清盛入道の未亡人時子は六波羅の館で身悶えした。
「もし、源氏とほこを交えぬならば、かかる折にわが平家がいかで棄て置くべき、口惜しや、餓えて生命絶ゆる人を助けもせで・・・」
と ── その六波羅も軍馬のかてさえ乏しい。あれほど貧者をうるおす賑給しんごうに熱心だった時子には身を切られるようだった。
餓える人々を救う術はなくとも、せめて良民を襲う凶暴な盗賊は罰せねばと、平家一門の平知康が検非違使けびいし(罪人追補役)を動員して数多く捕縛、死刑に処したので、ようやく賊の横行は止んだ。
そうした社会不安と飢饉の災禍の悪運を払うためか、年号はまたもや改元、五月から“寿永”と変わった。
その寿永元年の十月に宗盛は“内大臣”の職を命じられた。
「こはいかなこと」
宗盛は、はたと当惑した。それはひとり宗盛だけではない。六波羅一門の武士、家臣、そして母の時子も思いは同じである。
これが、。四海波静かな平和の時代なら、帝の伯父君が天皇の側近に奉仕して皇室の事務をつかさどり、輔弼ほひつに任に当たるのは、ふさわしくめでたいことでもあろうが。
今は平家にとってまさに危急存亡の秋である。さきに嫡子重盛を失った平家では、入道相国逝かれしあとは三男の宗盛が一門の統率者として、重い責任を負っているのである。いまや諸国源氏の蜂起、中にも木曾の山奥で以仁王の令旨を受けた源義仲、頼朝の従弟が山育ちの荒武者ぶりを発揮して、いたるところで平家軍を敗走させ、ひたすらに京都めがけて野火の焔のひろがるように突進中である。
六波羅がいまやその防戦の戦略に日夜頭を悩ます折に、肝心の統率者の宗盛が内大臣として殿上に伺候せねばならぬとは・・・。
その宗盛に内大臣を下命されたのは、もとより幼き安徳天皇に代わって院政を執られる後白河法皇の思召しである。この時局を知られる院も心ないことをなさると思ったが、
「この際にもし拝辞いたさば、院と平家の間柄につまづきが生じよう、いたしかたなし、ひとまず素直にお受けいたそう」
こうした悲壮な決心で宗盛が内大臣を拝命したのは十月三日。それからまもなく大嘗会だいじょうえが行われる。
これはその年の新穀を天皇が天照大神あまてらすおおみかみにささげる毎年の新嘗祭にいなめさいの神事と同じながら、天皇即位後の御一世に一度特に大嘗会と称して一大神事を行う慣例なのである。
宗盛は内大臣になるやいなや、そうした朝廷の一大祭典に精神を費やさねばならぬとあって、心は日々平家の敗報伝わるに引き裂かれつつ、身には戦いに縁なき衣冠の礼装をまとう苦悩は彼を憔悴しょうすいさせた。
2021/01/24
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