~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
母 の わ か れ (三)
幸い、まだ京の近くは戦場化せず、その晩春には平家軍勢を率いる平維盛、通盛ら一族が、越前で、源氏軍を破っていた。その勢いに乗じて加賀に軍を進めて小曾義仲との対決の陣容をととのえたいた。それを迎え討つ義仲軍は越中に入り、やがて国境の白山山脈が両軍の決戦場となりつつあった。
維盛の大軍は加賀の南部から砺波となみ平野に進んだが、義仲に山中におびき出されたのが大きなつまずきとたたり、義仲の夜襲で身体不自由な山中で退路を失い倶利伽羅くりから峠の谷底深く平家軍の人馬折り重なって転落、人馬の屍は谷を埋めて惨敗、七万余騎が僅かに二千余騎となって辛うじて加賀へ逃げ込んだ。幸い通盛率いる三万騎が、かつて以仁王令旨りょうじの伝達使だった源行家が義仲の別働隊として進軍中を志雄山に迎えて互に苦戦中だったので、維盛の敗残兵はそれに合流したが、そこへ勝ち誇る義仲軍が行家を応援に駆けつけて篠原で合戦、平家軍に利あらず涙を呑んで総退却したのは五月十二日だった。この北陸の平家敗戦では志雄山で宗盛兄弟の異母弟知度とものりを失い、倶利伽羅峠で有力な侍大将三人、篠原でも二人を失った。その他の戦死の兵は幾万知れずである。
こうした敗残軍がようやく京都にたどり着いたのは六月の上旬であった。
この四月に維盛、通盛が、平家の大軍を従えて堂々と六波羅を門出して、洛中の人々に、平家の軍備の底力の強さを示したその軍隊が、いま五分の一の数となって疲れ果てた姿で入洛したのに、京の町はしいんとしてみな戸を閉め念仏を唱えるありさまだった。それらの民衆の悲しみの中には軍夫に徴用されたのもあり、また六波羅武士団の雑兵として出征したのもあり、その母や妻や父を失った子の歎きがこもっているはずである。
平家軍の根拠地六波羅は、その敗軍の将維盛、通盛とその生き残り兵団を迎えて、声もなく打ち沈んだ・・・。時子は阿紗伎以下侍女たち、家臣と共に全力を挙げて、この敗残の兵を慰労し、傷つきしは手当して、戦塵にまぶれた身を沐浴させ、その休養に六波羅の殿舎も解放した。
そして、戦死の知度以下侍大将五名と、北陸の戦場に屍と化した戦死者のための供養を催した。
その日に時子は国母建礼門院を除いて花山院、冷泉、近衛、七条の北の方を招いた。
それは戦死の知度が彼女たちの異母弟に当たるからである。姫たちは六波羅にまだ居た頃から同腹の重衡まではよく知っていたが、その下の知度は異腹なので家臣の邸で育ち姫たちとは馴染みが浅かった。けれども亡き良人清盛の血を引く男系の一人ゆえ、姫たちにも弔わせるためであった。
戦時下とて平家ごのみの豪華な供養の催しではなかったが、それだけに哀悼の思いさらに深い、しめやかな戦没者への招魂の法会だった。
「われら知度殿がたの弔い合戦にいさぎよく命をかけ参らせん」
六波羅の武士たちはまなじりを決した。
法要終わって姫たちは母の時子の居間に集まった。この姉妹と母の対面の場合には阿紗伎以外は居なかった。いつものように唐果物からくだものや茉莉花茶など運ばれるはずもなかった。今は出征の兵たちの兵糧も足らず、一粒の黒米だに惜しまれる状態だった。
2021/01/25
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