~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
白 鳥 の 歌 (五)
その日六波羅、西八条の燃ゆる炎の煙は京の都の空を覆って、いつ消ゆるとも知れぬありさまの最中さなか、七条家の当主信清は継母典子の心中の打撃を案じて中務なかつかさ省を早退して帰ると、案じた通り母は北廂きたびさしの間に閉じ籠って安良井一人が付き添っていた。
けれども典子は信清の顔を見るや落ち着いた声でしずかに告げた。
「今朝の六波羅一門と共に、能円法印も二の宮をお連れいたしましたので、四の宮は範子どのと藤原範季卿の邸にお移りになられました」
範子の兄範季は後白河法皇の院政の高級官僚の一人だった。皇子御教育役の能円が平家と共に二の宮と都を離れては、法勝寺執行しぎょうの役は放擲ほうてきしたのだがら、ふたたび執行邸には帰れぬと察して、妻の範子は実家である兄の邸宅に四の宮と身を寄せたのである。
「おお、それはよい御思案でした。二の宮が法印と都をお離れとはなだ知らずに居りましたが、四の宮がお残りでは法皇も御安堵でございましょう」
信清の言葉に典子はつまずき、
「あの法皇さまは帝や二の宮と都をお立ちになったのでございましょう?」
母時子から平家が都を立ち退く際はその予定と聞いて、それをかたく信じて居た。
「いいえ、法皇さまは今暁ひそかに延暦寺に御幸なされたはずでございます。先刻前関白さきのかんぱく松殿(基房)、右大臣(藤原実美)、花山院兼雅卿方、御機嫌奉伺ほうしに延暦寺にのぼられました」
(法皇は落ち目の平家を見放された!)
典子の胸はこわばった。それを前もって見抜けぬお人好しの兄宗盛が今朝おそらく法皇御所にお迎えにのこのこ参上した時は、もはやもぬけの殻の御所法勝寺殿に悄然しょうぜんとしたであろうと歯ぎしりをしたくなる。
この典子の表情で、信清はさては母君は法皇が必ず平家の都落ちに御同意と思い込まれて・・・と知って、心なきことを口にしたとは悔いたが、この中務省で得た情報をいつわれず、暗然としてうつむく。
「延清どの、法皇も京におとどまりとあれば典侍さまもお心やすらかでsりましょう。早うそれをお知らせに参られよ」
もし帝も法皇も都をあとにされたら、京の都は皇室不在となり、残された四歳の皇子はいかになろうかと、殖子はひそかに心痛、と典子は察していた。こうなると平家の娘と、皇孫の生母とっは利害を反対にするわけだった。
「はい、では・・・」
信清はさぬ仲の母と、妹殖子の間に立ってまことに苦しい微妙な立場となり、せっかく母を慰めようと早退した心づかいも役立たぬと、彼は顔をくもらせて母の前をしじぞく。その信清の心苦しさを読むように見送った安良井は典子に膝をすすめて、
「信清さまに委しく伺うことは御遠慮いたさねば・・・さりとて六波羅御一門さまの今日のごようす如何でございましたろう、法皇さまもいち早く御所からお逃れ遊ばしたとあっては、ほかにもさまざま・・・」
そうであろうの、、なにやら胸さわぎがする。母君、建礼門院いずれも淀の川尻よりつつがなく御船出遊ばされただろうか」
そう言う典子はかつて遷都の福原へ渡ったことがあるだけに思いはひとしおであった。
「今日のそのごようす、もしや冷泉家へ伺いに参ればあちらにも何かと伝わっているやと存ぜられますが」
安良井が言うと典子は考える。法皇が平家をもはや見棄て、そお都落ちの巻き添いを避けられたと知ると ── 早くも朝臣、公卿たち先を争う如く延暦寺まで御機嫌伺いに出かける。その中の花山院兼雅は姉君の良人、落ち行く平家と縁は結べど、さらさら平家にくみする心はなしと証明するかのように法皇の許へ参じるのであろう。そうなれば冷泉隆房中将もいずれ劣らぬ態度であろう。してみれば冷泉家には六波羅一門都落ちの詳細の情報が入っているにちがいない。
「安良井の申す通り、冷泉家へ参り祐さまに伺ってほしい、京の街中はさぞかしさまざまの噂飛び乱れるであろうが、まことのありさまを一刻の早う知りたい」
典子もそれを望むので、安良井は雑色一人を供に冷泉万里小路へ急いだ。
2021/01/29
Next