~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
さ ら ば 、 ふ る さ と (一)
源頼朝が一族郎党を従えて相模の鎌倉に本拠を定めたのは治承四年(1180)の十月だった。そこが源氏の祖先伝来の地であり、敵を防ぐ要害の地でもあった。
石橋山の合戦以来、別れたままの夫人政子を伊豆から招き、由比ゆい郷にあった鶴岡つるおか八幡宮を小林郷に移して源氏の守護神と奉り、それを中心にわが居館や侍所さむらいどころ、兵馬の屯営とんえい、家臣の住居等施設を調えた。頼朝の勢威が東国に及ぶにつれ、頼朝が平家討伐にこの本拠地を留守にすれば、その虚をつかれる危険があるとの家臣の建言で、平家を討つには、かつて出陣中に黄瀬川で初の対面をした、奥州から馳せつけた異母弟義経を全面的に起用して兵を授けて当たらせ、頼朝は源氏政権を確立させる工作に専心した。
その頼朝は、家臣はいずれも武士として智勇すぐれた者は多いが、政治機関に才能を持つ文官としては不適任であるのを、いまさらに痛感した。彼の乳母の甥の三善康信とは伊豆の流人時代から音信を交わし、やがては彼を源氏の政務官僚に招く予定であった。その康信が自分より有望な文官として盟友大江広元を強く推薦した。すぐれた文化人の文官はもとより望むところ、この京都貴族階級出身の両人に、源氏武士団の統率者頼朝をたすけ、武士階層に欠如している行政技術を発揮させようという頼朝の期待は大きかった。だがそれを実現させる前にまず当面の大問題は平家を滅亡させて源氏の天下とすることだった。それまでは源氏軍を勝利にみちびくために、頼朝は鎌倉から油断なく源平戦への遠隔操縦をせねばならなかった。
その間も康信は京都の情勢を鎌倉の頼朝に届けていた。その使者はいつものように弟の康清だった。平家の入道相国逝去の際もいち早くそれを通報したのは康清だった。その時“世上いささか落ち着かば畏友大江広元同行、鎌倉に参向すべし”と書き添えた。
これを康信から聞いた広元は言う。
「まずその前にわれら少外記の職を辞さなばならぬが、両人病軀その任に堪えずと致仕ちし(辞職)を願うも、なにやら事ありげで怪しまれよう」
「さような事もあろうか、あまりにながの歳月を同じ觸に甘んじ、いまは古参となって少納言局の局務万端の生き字引となり、上司に重宝がられているだけに病体にも見えぬに職から離れるとあってはいかにも・・・」
康信も広元と顔見合わせて苦笑した。
かくて ── 二年後の寿永元年の大嘗会だいじょうえに批判的の言葉で罷免されると、その機会を待っていたかのように両人は昼は乗馬の稽古、夜は法律典故てんこに明るい康信を相手に広元はそれを変改へんかいして源氏の新政権にいかに適合させるかを研鑽しつつ、目下の混乱状態の社会を救済する政治的識見を論じ合った。こうした準備が調ってから、京都をひそかに脱出して鎌倉へおもむく機会を待った。
「康信殿、急ぐことはあるまい、鎌倉の新興武士群に身を投じて政務にあずかるからには、それだけの識見を身に付けて現れずば、単に新勢力に媚びて尾を振る犬にひとしいであろう」
と、淡々と落ち着きはらっていた。少納言局を罷免後まもなく年も改まって、それからもう夏も終わっていた。
康信も世がいささか落ち着かば鎌倉に参向いたすとかねて頼朝へ言い送ってあるが、なかなか落ち着くどころか源平の争乱たけなわで世はますます騒がしい・・・。
2021/01/30
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