~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
さ ら ば 、 ふ る さ と (二)
初秋の霖雨りんうそぼふる夜更けだった。千種ちぐさ殿の片ほとりの広元の住居のささやかな門を叩く音がした。
少納言局に勤務中は老僕も一人使っていたが、その月俸生活を離れてからは、今まで僅かの貯えと、罷免ながらも勤続年数の功は認められて退職手当の給与でひっそりと隠者のごとく暮らす広元は、書見中の書斎から脂燭しそくを持って、雨に消えぬよう片手の掌をかざして門を開くと、そこに立つ人影の気配で康信とわかった。燭の灯で小雨の中に浮かぶ康信の顔は明らかに興奮状態だった。雨を凌ぐためにもみ烏帽子の上に狩用の綾藺笠あやいがさをかぶってこの雨の中夜更けを訪れたからには緊急の用事であろう。広元は無言で彼を書斎に招じる。妻の雪も二人の子も寝入ってしいんしいんとした家うちだった。
「この夜半駆けつけしはほかならず、鎌倉へ京の情勢を伝えに使いの弟康清、先刻ようやく帰着・・・」
せき込んで告げる康信は、その使者の弟が頼朝より康信、広元を鎌倉に招請する書状を持ち帰ったとふところより取り出して示した。
「おお、それではわれらいよいよ出立いたそう!」
自負心の強い広元、頼朝から正式に招請状が来たということが、彼を欣然として奮い立たせた。
「康清の旅中の見聞にては、すでに木曾の義仲軍近江より勢多せたに迫るよし、いずれ京に入らば大混乱、それより先に旅立つが安全であろうが」
「さりとて今日明日のことではあるまい。それまでにかねて打合せのごとく、万事妻子の処置をいたして心置きなく旅立つといたそう」
「それは御案じあるな。以前からの御相談通りわれらの留守は康清が両家の家族を預りて烏丸からすま奥の邸で守護いたす。たとえ木曾の荒武者洛中を横行するとも公家の邸多きあの奥は用心のよきところよ」
広元の妻雪は康信の従妹であり、康信の妻八重とは姉妹のように睦まじい。広元の二児、八歳の親広、五歳の時広は康信の二児、康俊、康連らと兄弟のように親しい。康清は兄の使者としてかつては伊豆、今は鎌倉を往復の壮者で武術にも長けている。烏丸奥の邸は古いが広く、庭には厩舎もあり、広元の馬も預り、家僕も二人仕えている。祖父の蓄財で外見より裕福である。こうした好条件の三善家に妻子を預ける広元には後顧の憂いはない。やがて彼の運命を賭けた源氏再興の天下となれば、両家の家族は相州鎌倉に呼び寄せられるはずだ。
── その翌日から広元の妻雪は、良人の旅立ちの支度にかかった。
「供をひきつれて大荷物をかつがせてゆく派手な旅ではない。康信殿と人眼を避けて辿る堂ちゅう、荷物は無用」
良人が叱るように言うが、
「さりとて、十日余りはかかると申す旅路は下のものもお更えにならねば、また御到着後は旅によごれた狩衣を直衣のうしにお召更えになって鎌倉殿(頼朝)と御対面下さりませ・・・」
妻は京からはるばる招聘しょうへいされるわが良人にみずぼらしい姿はさせられぬと、それが一生の一大事に思われる。だが日頃着衣には至って無頓着で、その代わり書籍の購入には乏しい中の出費を惜しまぬこの良人とて、鎌倉到着後の晴衣にふさわしいものも見当たらず、困ってしまう。
その旅支度と共に雪はいずれ近く三善家へ引き移る準備にわが住居の物を整理すると、埃をかぶった古葛籠ふるつづらの底から眩しいほどのきらびやかな直衣が思いがけず発見された。
雪が眼を見張ってひろげると、表は白綾唐花からはなで、背を返すと桜襲さくらがさね、裏は淡い平絹ひらぎぬ、まことに高雅な、そしてまた高価な・・・良人がつくるはずのないものと思えた。
それを今まで気付かなかったのは、彼女が広元と結婚以来、その古葛籠に手をかけたことがなかったからだった。
「あれ、このようなみごとな直衣!」
妻の張り上げる声に広元は振り返ると・・・言葉もなく黙然とさせられた。それは彼が少納言局に出仕して一年余を過ぎて権少外記ごんのしょうげきから一段上の少外記に昇格した祝いにと西八条の北の方時子から贈られた直衣だった。その織模様を見立てたのは祐姫と乳母の汐戸から知らされた嬉しさ・・・それを昨日のことのように思い出したが、じつは十一年前の若き日である。いま眼の前に妻が手にして驚くその美しい模様の直衣は、昔の押し花がはからずも書冊の間から見出されたようにも見える。
「わたくしは、これをお召しになったお姿をいちども見たことがございませぬに」
雪は不審でならぬ。
「それは貰うたものじゃが、あまりに華美に過ぎるので身に付けかねて、しまい込んで忘れて居った。もうこの年齢では役に立たぬ」
「お年寄りじみたことを言われますな、未だ男盛りのお年齢、殿上人は腰のまがるお年齢でも華やかな直衣を召されます」
雪は良人が三十五歳で新興の源氏の政務官として迎えられるのを手頼たのもしい限りに思う。従兄の康信と共に頼朝の乳母を伯母に持つ彼女は幼い日からじぶんたちは源氏の家臣の系統と思い込んでいる。
その彼女は鎌倉殿との御対面にはこの華美な直衣で良人を飾りたいと、その袖や裾をひろげた時、がっかりさせられた。長い歳月を虫干しもされず古葛籠の底に秘められたままの直衣は広元の手が一度も通らぬうちに、ところどころ虫が桜襲のあちこちをむさぼり喰うを許したのである。
「まあ、口惜しや、虫が喰うて・・・」
妻の歎きの声を背に受けて広元は足早に書斎に逃げた。── あの直衣をついぞ手にしなかったのは華美に過ぎるからではない、西八条からその贈物を受取って間もなく佑子と冷泉隆房との婚約が生じて彼は失意の奈落に突き落とされたからだった。そしてむなしく古き葛籠の底深く納めたままのはかなき恋の遺品かたみむしばまれたように、彼の青春も蝕まれて暗い青春時代だった。それが現在の自分を造り上げたのを彼は知った。
2021/01/30
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