~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 消 息 (一)
── 少納言局の少外記を罷免されて、しばらくひっそり暮らした三善、大江の両人が家族を残してある朝ふいと京からいずこかへ立ち去った事など誰あって気付く者もないこの首都京都も、木曾義仲が京に進軍した時は大きな衝撃だった。洛中の民家は戸を、公家の邸は門をかたく閉ざして息を呑んで静まりかえった。
比叡山から御所に帰られた法皇は義仲を照見されて“平氏追討”を命じられた。その瞬間から反乱軍の源氏は初めて官軍の位置につき、西海に渡った平家が叛乱の賊軍の名を蒙った。それと同時に平氏一門二百四人は今までの朝臣としての官職を奪われ、その一門の所領地五百余ヶ所は没収された。官職を削られた一族のすべてはおま京を去って西海にあるが、法皇と共に京に止った摂政近衛基通はしりぞけられて、叔父の基房の嫡子師家をその職につけたのは義仲の希望からだった。
こうした朝廷の沙汰が、七条家の典子の耳にいち早く入るのは、継息子の信清が勤務上それを知るからだった。信清も平家が実家の母には告げ辛い事実ではあったが、典子を実母のように親しむ彼は黙っては居られず、また彼も平家一族への深い同情と義憤もあって母と共に有為転変ういてんぺんの世を歎きたいのだった。
「さては摂政さまを近衛家免ぜられしは、北の方がひろさまゆえでございましょうか」
典子はそう気をまわさずには居られぬ。一つちがいの姉の寛子は摂政基通の妻である。
「いや、さようなことはありませぬ。もしそうとあらば、花山院殿、冷泉殿みな平家と婚姻を結ばれて居ります。ここ七条家も同じこと、この信清も平家の姫を母上に仰いで居ります」
「まことにお気の毒に思います」
「なにを仰せられます。いま洛中にみなぎり京の女を追いまわし、民家に押し入って略奪りゃくだつを働く木曾の田舎武士群の粗野な振舞に怯気おじけをふるう都人とじんは口々に『六波羅武士の作法きびしく典雅なりしなつかしさよ。ふたたび平家の世に戻ってほしや』と申して居りますそうな・・・」
信清の慰める言葉に思わず典子は涙ぐみながら、
「さりとて、院(法皇)とその近臣はいずれもいまや平家を賊とされて・・・帝を奉じた平家がなにゆえ朝敵でございましょう?」
「それもすべて院も朝臣も目前の強者にびられての保身の術、ふたたび平家軍勢が西国より盛り返して洛中に戻るとなれば、直ちに官軍の源氏は賊に、賊軍の平家はたちどころに官軍となり源氏討伐の宣旨が降ろされましょう、院の朝令暮改は常にこのようでございます」
「それにしても、摂政を松殿(基房)の子息へと望まれた小曾殿は、かねて松殿とは親交を結んでいられたゆえでありましょうか」
「いえ、いえ、木曾の山奥の田舎武士が京の摂関家(摂政関白の家柄)と交際のあろうはずはございませぬ。京へ進軍した木曾殿がにわかに松殿に接近されたのは、松殿の美しき姫を垣間かいま見て恋着されたからだと噂がひろまって居ります」
信清は苦笑する。
「えっ、ともえとやら申すしょうを陣中に伴うという木曾殿が松殿のあの姫のもとへ通われることになりまするか!」
典子はその十七歳の姫を見知っていた。たぐいなき美女として父の基房がひそかに入内じゅだいの望みを持つのも当然だが、帝は幼く法皇には丹後局、それに競わせるつもりかと陰口があった。その姫が相手もあろうに・・・。
「京の貴族も木曾殿の蛮勇ばんゆうには冑を脱いだ代償に摂政を贈られたと思われます」
もはや世も末である。典子も信清も暗然として言葉もない。平家が都落ちして以来、典子が信清から耳にする事どもは、どれもこれも魂の消え入るような世の移り変わりの儚さだった。
2021/01/31
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