~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 消 息 (二)
典子はなるべく毎日同じ邸内の殖子の居間を訪れて言葉を交す。わが娘ながらも二皇子の生母の位置にある殖子をおおそかには扱えぬ。また殖子も時折北廂に母を訪れる。その日は殖子の許で典子は碁を所望されて盤に向かい合った。当時の碁盤は紫檀の木地に螺鈿らでんの装飾を施し両辺に碁石を入れる引き出しが付いている。まず天元の星に黒石、四隅の星に白と黒石をたがいちがいに二つずつ置いてから打ち始める。
身分の上の者が白を持つならわしだったが、典子は皇子の生母の身分を上として殖子に白を持たせようとしても、
「母上ではございませぬか」
と白石を典子に押しつける。
その碁の碁の勝負を、殖子の侍女たちと、典子のお供の、安良井が興じて見守る光景を殖子の伯母唐崎局は微笑ましく眺めて、
「おお、これはまあなんと『源氏物語』の“竹河”の玉鬘たまかずらの美しき姫君姉妹が庭の桜を賭けて碁を打たるるによう似通われておわす」
と賛辞を呈したつもりで言うのだったが、典子はたとえ物語の名ではあっても“源氏”という名はそうけ立つ恐怖を覚えて思わず指先の碁石を取り落とした刹那、慌しいく信清がそこに現れた。中務省から退庁の時刻にはまだ早いに彼は息せき切って顔を緊張させていた。
その信清は妹殖子と碁を囲む典子の姿をそこに見出してはっと息を呑むようだった。
そのただならぬ気配に典子はこの兄妹に何か密談があるなら座をはずそうと思ったのもやはりさぬ仲の遠慮であった。その典子の様子を見てすぐに推察するのも信清の敏感な母への配慮である。
「母上も折よくここにあられて幸い、典侍と共に委細をお聞き戴きます」
膝を正して何事か改まった態度の信清に一座はしいんとした。唐崎局も安良井たちも信清は眼顔で立ち去るには及ばずと制した。
「本日、三ノ宮には乳母どの、四の宮には範子どのがいずれも付き添うて院(法皇)に召されて参入いたし、院は二皇子をお傍近くに招かれました。三ノ宮は乳母を離れずむずかられましたが、四の宮はにこにこと院の御膝に抱かれ給う愛くるしさに院も御機嫌ことのほかであったとのこと・・・院にお付きの丹後局も『四の宮こそ皇位継承の御子みこの御吉兆を備え給うと拝されます』と仰せられて、たちどころに四の宮このたび第八十二代の新帝にと仰せ出されました」
殖子も典子も呆然とした。だが典子はそれには半信半疑で納得がゆかなかった。
「天に二つの太陽なきごとく、国にみかどがお二方ふたかた立たせ給うとは、何事でございましょうか、天皇はただいま平家奉じて西海におわしますに・・・」
必死の思いで言う典子の切ない胸中を思いやって安良井は息が詰まった。
「母上のお言葉はまさしく道理でございます。されども、いかに申し上げづらきことながら、朝廷は平家をいま賊軍と見なされますによって・・・さりながら母上御安堵あれ、平氏の陣営には三種の神器が奉じられます。三種の神器なくしては新帝の御即位の式典はあげられませぬ。それゆえに院も西海の平家に神器奉還を勧められるは必定。それこそ平家と源氏の手を結ぶ講和の機会かと思われます。かくて帝は幼き上皇となられ、四の宮は新帝に、源平武士団共に左右の車輪の如く朝廷に仕え、東国を治めるは源氏、西国の統治は平家、いずれもこの国の守護をつかさどりて天下太平の御代を来す日も近からんと信清ひそかに案ずる次第でございます」
信清はかねて抱いていた理想を額に汗して熱心に母の前に吐露した。彼の苦しい立場からのそれは切に願う夢であり、かつ実現するに不可能とも思えぬこの源平和平の設計図は、心ある智識人の朝臣たちのひとしく描くものだった。
「この殖子も兄の申す通りに一日も早く怖ろしき殺戮の戦いを取り止め源平の和平なる日を祈り居ります」
と殖子がしめやかに言った。彼女の立場もまことに息苦しい境地である。継母の姉君建礼門院を生母の今上きんじょうをさしおいて、いまわがせる尊成たかひら親王が帝位につくという吉報もそのまま手放しでは喜べぬ。
その時、唐崎局の思いあまった声がした。
「ああ、亡き信隆卿いま世にあらば、必ず身命を賭して源平の講和を一日も早くと奔走されたにちがいありませぬにのう」
── 典子が黙然としていま思いを馳せるのは遠き西海にある平家の一門、ことにわが母時子と姉の建礼門院が、都では後白河法皇がすでに孫の安徳天皇を見棄て給うて、新帝を立てらるると伝え聞いたらどのような絶望であろうかと思い及ぶと、胸が張り裂けそうであった。しかもその幼き幼帝は平家の末姫を義理の母とする殖子の生せる皇子、今上の異母弟であるとは・・・平家の姫姉妹のなかに、はからずも自分がこうした宿命を負うとは! 典子は人眼がなければ声をあげて泣き伏したかった。
2021/02/01
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