~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 消 息 (三)
高倉院の第四皇子で亡き修理大夫の娘殖子が生母の尊成親王に践祚せんそ(皇位継承儀式)が宮廷で行われたのは寿永二年(1183)の八月二十日だった。安徳天皇と平家一門が都を去ってから二十六日目だった。そしてその儀式が神器不在のままであったのははじめだった。
新帝(後鳥羽天皇)は乳母範子と共に藤原範李邸から禁裏きんりに移られた。この四歳の帝の侍従は伯父君の信清である。
殖子は帝の母后となられて、やがて七条院と呼ばれ、その棲まわれる七条邸は七条殿と称される。継母の典子は帝の外祖母となった。母の時子が安徳帝の外祖母ではあったが、思いもかけずその姫の一人が新帝の外祖母とは・・・典子は喜んでいいのか悲しむのが当然かと、呆然とする。その典子の亡父信隆は帝の外祖父に当たるとあって、ありし世の修理大夫職から一躍左大臣従一位が贈位された。
── この新帝について義仲は異議を唱えた。かつて平家討伐の宣旨を源氏に授けられた以仁王の遺子を帝位にと主張して法皇に対し、朝臣たちに反対されうとんじられた。朝廷はこの猛将を敬遠し、平家追討を名目に京から追放しようとするが松殿基房の姫に執着してか義仲は都を去れぬ。法皇ついに義仲に退去命令を出されると、義仲怒って法皇の御所法住寺殿を攻めて火を放つ、法皇は寵臣近衛基通邸にひそかに隠れられる。基通の北の方は平家の姫寛子、彼女は平家を見棄てられた法皇が源氏の義仲に攻められて逃げ込まれたのに、複雑な心境である。
新帝も皇位につかれるに反対した義仲の暴挙を怖れて母后の七条殿に避難されると、外祖母典子の子息隆清がお遊び相手で窮屈な御所よりも開放感を覚えられて日を過ごされる。
法皇は鎌倉に使者をつかわし義仲の暴挙を告げて頼朝の上洛を促される。義仲はそれを知ってか西海の平家と和平をはかるという噂がひろまった。
同じ源平の和平も無教養な暴将義仲を相手では、信清や殖子が母典子のためにも切に望む和平の構想とは大きく相違する。
やがて頼朝が弟義経に兵六万を率いさせて義仲討伐に京に向かわせたのは、その年の暮れ十二月だった。伊豆の流人の孤独な生活で人間形成の歳月を送った頼朝は肉親の情緒を知らず、まして木曾山中から現れた従弟の義仲の京都での独断的行為には反撥と疑惑を覚えて敵視した。
年が明けて寿永三年(1184)一月十六日、義経の軍平が近江に着くと義仲部下の兵たちは早くも逃げ散ってほとんど抵抗を受けずに京に入る。
一月二十日義仲の防衛の陣破れて軍勢はわずか三、四十騎、それも四散して義仲は主従二馬で北陸路へ落ち行く途中の近江の粟津ヶ原で薄氷の張る苅田の泥中に馬が踏み込んで動けず馬上で射られて戦死、行年三十一歳。頼朝より七つ下の山育ちの猪突猛進のあわれに短い生涯であった。
その義仲の最期もまだ伝わらぬ日、七条殿では帝の御滞留中の警戒に北面ほくめんの武士が表門をかためて朝臣や帝の近侍者以外の出入りは許さぬ。典子の北廂の間から近い中の門が家従や侍女の出入りで、これもさるの下刻(午後五時)には早くも門を閉めたあと、中門脇の築地ついじ(土塀)を切りぬいて扉をはめた切戸(くくり戸)だけを使うが、これも門限とりの刻(午後六時)には鍵をかける。その鍵が時として忘れがちになるのは、七条殿がこのたび義仲の暴威からの帝の避難所となって以来、この御座所の母屋に人手を要し、典子付きの侍女や家従もお手伝いにまわされる。別棟の信清の家庭では妻の睦子が実家で出産の女児と帰り、そちらにも人手がいるので、北廂付の者が手不足ゆえだった。そのため安楽井が切戸の鍵まで責任を持った。
2021/02/01
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