~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
明 暗 (二)
その二月四日、福原では平家一門が清盛公の命日の供養に集まった際に、時子は亡き良人の冥福への香を焚いてわが子宗盛初め血族に向かって声を励ました。
「このたびの源平合戦は入道さまへの弔い合戦として一同力を尽くしてたもれよ。われらは帝と共に三種の神器を奉ずるに、いかで賊軍であろうや。必ず源氏を討ち亡ぼして京に入り、平家発祥の地の六波羅にふたたび美しき牡丹花ぼたんかを咲き溢らせ入道さまの御魂みたま手向たむけせねばなりませぬぞ」
たぎり落つる涙をぬぐいもせず時子は一族の顔を見まわすと、知盛が代表してそれに答えた。
「いかにも二位どのの仰せ通り、われらいずれも身命を賭して捲土重来の六波羅武士の威力を発揮する覚悟ゆえ御安堵めされよ。帝と建礼門院、母上、女房たち、弓矢を持たぬ女人の一群、陣中にあっては、われらの気がかり、戦闘起らばたちどころに御乗船あって陸を離れて和田岬の海上に御避難あって平家戦勝を御祈念ありたし。戦中の守護には兄上(知盛)が当たられよ」
都落ち以来、一門の武士団には宗盛が色白の贅肉ぜいにくの付いた身体に鎧を着ても頼もしく見えず、色浅黒く引き締まって颯爽さっそうとした筋骨質の知盛に信望が集まっていた。
時子や建礼門院、供奉の女房たち非戦闘員は安全地帯の海上の船中に、その守護に宗盛を選んだのも、宗盛がさなばら手足まといの感じだったからであろう。
清盛の四周忌のすんだ翌日義経と範頼のりよりの率いる源氏軍は京都から一谷に向かった。範頼も頼朝の異母弟だった。この兵団は平家軍の何分の一であった。
平家軍は生田森付近を知盛、重盛の兄弟が守り、一谷の城戸きど口は清盛の末弟歌人の武将忠度が守る。山の手の陣地は通盛たちで守った。
二月七日のの刻(午前六時)に源氏軍二手に分かれて総攻撃開始。たつの刻(午前九時)一谷平家陣営の背後の断崖の上に義経の騎馬隊は進み、この要塞の険路を一気に砂煙を上げて駆け降りた。
まさか、敵はっこの断崖からは降りられぬと安心したのが、平家栄華のなかでの公達育ちの武将たちの弱点だった。清盛の霊は天で歯ぎしりをして歎いたであろう。
この後世名高き、鵯越ひよどりごえの奇襲戦がみごとに功を奏して、平家陣営は大混乱、それから四方に敵を迎えての乱戦痛ましき死闘が展開して、ついに平家軍は波打際に追い詰められて沖の船に逃げ去るより致し方なかった。
こうして一谷の平家敗北は一族の武将、若殿ばらの多くを失った。
一谷の源氏軍の勝報はその翌八日には源氏の使者によって京都に伝えられてひろまる。
源氏が勝って万歳と、ホッとされたのは後白河法皇であった。もし平家が勝利を納めて京に乗り込めば、平家の留守に新帝を立てて、一族の官職と領地を奪い、“平家追討”の院宣を源氏に与えられたこの法皇は、どうなられるか? の境の合戦だった。
また法皇にべったりの朝臣も胸撫でおろすなかで、烈しい打撃、失望、落胆のどん底に沈むのは、清盛夫妻の姫として平家直流の女系につらなる四人の公卿の北の方たちだった。ことに七条家の典子は複雑微妙な立場であった。
平家一谷で勝ち進み三種の神器を奉じて京に堂々と駒を進めると、典子の義理の娘殖子を母とする新帝はどうなられるか? いま新帝は義仲軍滅びしのちは、皇居に居られたが、母后の殖子は典子と同じ屋根の下に居られる。新帝の侍従の信清も庭つづきの別棟である。この兄妹には源氏の勝報はむしろ“吉”であり、さぬ仲の母典子には“凶”である。明暗を異にする人たちの生活が七条邸にある。
典子はその日の夕刻に凶報を耳にするなり北廂の居間に閉じ籠る。安良井も同じ思いで青ざめて付き添う。
2021/02/02
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