~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
明 暗 (三)
「一谷の戦いで源氏に討たれし一門の武将の名はもうわかっておろうか」
典子は一族の中で永遠に会えぬ悲しい名を知りたかった。
「邸の雑色ぞうしきどもの聞いて参ったのは正三位さま(経盛)御曹司おんぞうし敦盛さまが沖の船へお逃れなさる途中で敵の熊谷直実なおざねと申す者に呼び止められて討たれ給うたが痛ましいと洛中の噂でございますそうな」
「えっ、まだ十六の女にも紛うあに美しい若武者を呼び止めて討つとは源氏の武士の心なき業よの」
典子は胸にきりをさされる思い。敦盛は叔父の経盛の末子で年齢下の従弟の美少年だった。
「さすがにその荒武者直実とやらはそれを悔いて、わがもとどりを切りましたそうな」
「その敵がわが髻を切ろうと鼻を切ろうと、いまさらあの愛らしい御曹司の生命は戻らぬわ」
典子は口惜しく、源氏憎しと唇を噛む。かつて都を移した福原の山荘で月のよい晩に典子はこの従弟の笛の音に恍惚うっとりとしたのを思い出した。もう永遠にその笛の音は聞けぬ・・・。
「またえびら(矢入れ)の矢に結ばれたお短冊で平家一の歌人薩摩守(忠度)と敵にも知れたのはあっぱれの御最期よと洛中の評判とのことでございます」
京の庶民の口から口へ伝わる敦盛や忠度の情緒と感傷をさそう情報だけでは、まだそのほかの一族の戦死者はつまびらかではなかった。そらく委しいことは源氏の使者によって法皇の御所や皇居へは平家のおもな戦没者が伝えられたであろうから、侍従の信清は知っていると思えたが、彼も母の典子の胸中を察して言い辛いと思うと、こちらから呼んで問い詰めるも憚られて、その夜は典子も安良井も眠れぬ。
「針女の菊女も良人の小六郎がもしやと思うて、やはり眠れぬでございましょう」
と次の間から安良井の声がした。平家一族の有名なふぁれ彼の誰彼の戦死は敵にもわかるが、小六郎程度の侍では谷でも山でも渚でもあちこちの鎧の屍は散乱したまま無名戦士となり果てるであろう・・・。
── その明くる朝。晴れやらぬ心も重く典子が朝餉あさげの箸を手に取る心地もせぬを無理にすますと、まもなく安良井がそわそわと現れて、
「冷泉北の方がお見え遊ばされました」
告げる声には力がこもった。俗に言う“しんは泣き寄り”と・・・典さまおひとりで悲しまれるより睦まじい姉君と共にお歎きがせめてものお慰めと、安良井には母の汐戸をお供に冷泉北の方の訪問が飛びつくほど嬉しかった。まして典子は悲しみの闇に鎖されたなかばに灯がぱっとついたように姉を迎えると、美しく憂愁をまとう佑子はやはりゆうべを眠れず過ごされたかのように面やつれて見えた。
二人は向かい合ったものの、いったい何から話し出していいか、しばらく黙ったままだったが、語らずとも姉妹の悲しみは胸から胸に通い合う・・・。あれほど平家戦勝をひそかに祈願した甲斐もなく神も仏もない世かと涙の眼を交す姉と妹だった。
「祐さま、西八条、六波羅で事あるごとに顔を合せた叔父君、従兄弟も数多く一谷で討死とは思えど委細はわからず、御曹司無冠大夫(敦盛)と忠度叔父さまだけは洛中の噂にのぼると知りましたが、冷泉家は隆房中将が禁裏の近衛府に御出仕とて、その辺のこと委しく御存じでございましょう」
「それをお知らせにあがりました」
「早う教えて下さりませ。武将の討死は武門のさだめながら、母君や建礼門院、帝の御安否は ── まさか源氏の手に生け捕られるようなことは・・・」
「それは御安堵なされませ。帝も母君、女院さまもいずれも戦場を離れた海上の船中でお過ごしにて、戦場から逃れた一門と兵馬との船団が供奉いたし屋島に向かわれました ── 生け捕りになられしは本三位中将(重衡)討死なされしより痛ましいお身の上・・・」
佑子がやるせない吐息をもらしたのに典子も同感だった。重衡はこの姉妹の五番目の兄である。それが源氏の捕虜とは・・・。
「生け捕りの憂き目を見られたはほかには」
「あとはいさぎよき討死のもののふ振りにて ── 越前三位(通盛)も勇ましく戦い抜いて果てられましたと」
通盛は通称門脇殿の叔父教盛の嫡子、この姉妹には従兄である。
「小宰相とか申す麗人が都落ちに加わっていたと申す越前三位ろの・・・」
その艶福家の従兄も帰らぬ人となった。小宰相はあわれにどうするであろう? だがこうした感傷を抱き切れないほど佑子の告げる血族の戦没者は多かった ── 従兄では敦盛のほかに経正つねまさ、経俊は叔父経盛の子である。甥では亡兄重盛の五男師盛もろもり、兄知盛の長子知章も戦死者だった。
2021/02/03
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