~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
京 と 鎌 倉 (一)
一谷に敗れた平家一族のなかの戦没者の武将の首が義経の六条室町の館に集められ、首に名をしるした赤い札をさげ薙刀なぎなたの先に取り付けられて、八条河原から東洞院の大路を北へ引きまわして獄門のおうちの木にぶらさげられたのは、一谷戦の六日後の二月十三日だった。その日は朝から小雨が霏々ひひと降りそそいでいた。その雨に濡れて平家武将のまだ十六歳の美少年武士敦盛、えびらの矢に短冊を結んで戦った四十一歳の風雅な武将忠度たちのいずれも平家伝統の気品備わる眉目の首級しゅきゅうが見世物とさらされて通るのを眺める群衆の中には「あなうとましの時勢よ」と面を背ける者、合掌して念仏を唱える老婆の姿が数多かった。
その首の引きまわしが終わって楝の木に首がかけられると、雨があがって陽が照った。「無惨やのオ」それを仰ぎ見る人々の声がした。
重衡は京に連行されて禁固、十四日後に都大路を平家の捕虜を見世物の引きまわしだった。
それからしばらくしての日に、烏丸奥の古びた邸に、康信と広元の留守家族がひっそりと息を詰めて暮らす棲居に、高位の公卿の女房らしき上品な老女が訪れて取次の家僕に名乗った。
「冷泉北の方に御幼少より今もお仕えうたす乳母祐汐にてございます。こちらさまに大江広元さまの御家内さまお暮しと伺い、折り入ってお願い申し上げたき事ありて、ほんのつかの間にてもおめもじ叶いませぬか」
それを家僕が奥へ伝えると、康清は外出中で康信と広元の妻だけだったが、雪はあまりに思いがけない訪問者に「お願い申し上げたき事ありて」などと言われて、ただおろおろするばかりだった。けれども康信の妻八重には思い当たる記憶があった。
冷泉北の方は平家の姫のはずである。その姫の漢文の師は若き日の広元なのを八重女は良人の口から聞いていた。それを起点としてたぐってゆく。
「そのお乳母どのにはわたくしがまずお会いいたしましょう」
八重女はこう言って、その女客を一室に招じて対応に出た。
「わたくしは広元さま御妻女の従兄康信の妻でございます。あなたさまはもしや康信をお見知りのお方ではございますまいか」
「仰せの通り存じ上げて居ります。と申すのは今からc十年ととせあまり昔、当時の西八条の館からゆう姫さまのお使いにて広元さまをおたずねせし折、その日は洛外吉田の里へこちらの康信さまと御散策のよしにて、そこまで参り古寺に俄雨の雨宿りの広元さまが雨に打たれてのお疲れを案じて牛車にお乗り願い小二条の大江家までお送りする道にて・・・」
「おお、それを伺ってようわかりました。あの時、あるじは雨に濡れてどうやらただならぬ御容態の広元さまを、小二条の独り住居へお返しするのが気がかりで、西八条のお乳母どのにもよう言うて牛車から広元殿をおろしてわが家へお連れいたしたと申して居りました。ではその時の・・・」
「乳母はこの汐戸でございます」
── そこへ雪女を伴って康清が現れた。
「三善康信の弟康清でございます。ただいま帰宅いたしますと、広元どのの御妻女が思いもかけぬ御来客のよしと申されるので、兄と広元どのの留守家族を預かる責任からもわれらも御用向きの委細を伺わんとかくはまかり出ました」
三人揃ってこの客の前に並ぶのは康清も一面識のある汐戸への心づくしだった。
「じつは・・・このたびの一谷にて御武運つたなく討死された平家の武将たちへの、源氏のあまりに情容赦もなきお仕打ち、わたくしの仕えまする冷泉家の北の方御姉妹のお歎きはどのようなものかお察し下さいませ」
汐戸の涙を呑む声に、三人ともしゅんとした。
2021/02/05
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