~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
京 と 鎌 倉 (三)
平安時代の相模国は八郡から成り、一郡はおおかた七つの郷(部落)に分けられた。鎌倉郷はその中の鎌倉郡鎌倉郷であった。源氏と鎌倉の関係は康平六年(1063)に源頼義よりよしが相模守となり鎌倉郡由比郷に石清水いわしみず八幡宮の分霊を請じ迎えて源氏の守護神の社殿を造営したに始まる。
その後百十七年を経た治承四年十月六日、頼朝が軍兵を率いて鎌倉郷に入った時は、農業と漁業を営む人々の住むだけの一寒村であった。
それから足かけ四年の後に京都から招かれて三善康信、大江広元両人が遥々はるばる到着した時の鎌倉は将来日本の覇府として幕府の所在地とする原型が日々進行しつつあった。
頼朝が初めて鎌倉に足を踏み込むと真っ先に源氏の勝利を祈願した由比の八幡宮は松の柱、かやぶききの簡素きわまる型ばかりの社だったのを鎌倉郷鶴岡に遷宮して、武蔵国朝草から宮大工を招き、本格的の社殿建築を完成、妻の政子が二度目の妊娠の安産祈願のため、その社頭から由比ヶ浜までの参道(現史跡段葛だんかずら)を造り、社殿前の水田をつぶして池を造り朱塗りの橋をかけた。
康信と広元が東海道の旅を重ねて由比ヶ浜の渚を眼の下に馬を進めた時、
「広元殿、あれが弟康清が道中地図にも書いた江ノ島ぞ」
と指さす彼方にその島が浮いていた。秋の潮は紺青こんじょうに澄んで、その島影はくっきりと近く見える。
旅立つ前夜、康清が教えた通り「大磯の浦から相模川を渡って片瀬川、そして腰越、稲村ヶ崎、江ノ島の浮かぶ由比ヶ浜に出ます」まさにその地点に立ったのだ。
京に生れて育ち長い旅は初めての両人は“はるけくも来りつるかな”と感慨無量であった。ここから続く鎌倉郷こそ、両人の骨を埋める地として自ら選んだ地である。
「この渚でしばらく人馬もろとも一息つこうではないか」
康信は馬を降りて旅衣たびごろもの埃を払った。広元もそれにんらった。
その時、この両人に近づいて来たのは、侍烏帽子の直垂ひたたれ姿の、これぞ鎌倉武士と見ゆる三名が雑兵を供に現れ小腰をかがめて、
「お見受けいたすは、京よりはるばると御遠来の三善康信殿、大江広元殿にはござりませぬか」
「おお、いかにもわれら両人たしかに、鎌倉殿の御招請にあずかり参向せし者」
と、康信は名乗って広元を紹介した。
御所ごしょさまの御下命にて、われら昨朝よりこの浜に出向き御到着を待ち受け居りしところ、いざ御案内申し上げん」
彼らは頼朝に命じられて、由比ヶ浜でその遠来の客を迎えに待機していた一団だった。すでに大倉に頼朝の邸は、西御門にしみかど、南御門など方角で呼ばれる門を四面に設けた居館が完成し“御所”と呼ばれて、その館の主は“御所さま”であり夫人は御台所みだいどころであった。
康信と広元は、迎えの侍の配慮で近くの農家で洗面、手足を浄めて、長い道中でえた仮衣を新しい直垂に替え、やがて導かれて行ったのは、鶴岡八幡宮だった。その源氏の氏神の神聖な社殿の広い廻廊を頼朝が康信、広元との初の対面に特に選んだのは、この京都の公卿出身の両人が頼朝の政務を助けてみごとな効果をあげるのを、氏神に祈る気持があったからだろう。
その対面で頼朝に両人は主従として仕え、政務補佐の任に当たる厳密な契約が事実上成立した。
まずさし当っては頼朝が武家政治を執る準備にぜひとも学びたかった「貞観政要じょうがんせいよう」の講義を広元から受ける事。康信は頼朝側近の秘書として文書の執筆に当たる役を命じられた。
この両人が京から家族を呼び寄せるまでの宿所は大倉御所の周囲にある家臣たちの居宅のなかの一つの家屋が当分の間の用にあてられ、京から従った三善家の下僕のほか新に両人各自の日常生活に必要な家僕と婢女まで配された。
2021/02/05
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