~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
渦 紋 (二)
やがてその涙に濡れた顔をあげて二人の義兄を前に典子は毅然と言い放った。
「よくぞ、わが兄君いま平家の頭領としていみじくも立派な御返書を したた められたと妹のわたくし泣かずに居られませぬ」
典子は次兄の知盛に比べて優柔不断の気質と思った兄の宗盛を見直したのである。
その典子の様子に兼雅と隆房は顔見合わせてつまづいた表情だったが、
「それは妹君の骨肉の情として、さよう思わるるのも無理ならぬことながら ── 御兄妹の母君も御胸中をお察しなされよ。御実子の末子のお命にかかわることとあれば母心の狂おしく惑乱されて、なんとしても奈良の僧兵たちの復讐の虐殺の手から重盛卿を逃れさせたいと思召すにちがいありませぬ。その母君二位殿の御心中をよそに、いま神器と供に先帝と女院の京への還御の術もなくなり、ただ手をこまねいて再び源平の 殺戮 さつりく 戦を見ることは、われらとしてもいかにも心苦しく・・・ついてはかつての西八条の姫御姉妹のなかにも母君のお眼の中に入れても痛からぬ 小姫 ちいひめく の典姫、その貴女からこの際、母君にねもごろの文したためて兄君宗矩卿の かたくな ななお心を説き伏せて戴き、神器奉還の上、先帝と母后を京に迎え、かつは、重盛卿の危機を まぬが れ、ここに源平和平の道開けるを得ば、そは平氏のため、天下のため、この母君へのおすすめは貴女こそ適任とあえてお願いに参上いたした次第」
二人は義妹の前に頭をさげた。典子はもう涙を流すいとまもなく、うつむいてじっと考えている。次の間の板敷に控える安良井はわなわなと身体をふるわせている。
ややあって典子は顔を上げて義兄にしっかりとした声で言った。
「院の思召しもあり、またほかならぬ義兄方が平家一門に対してのお心づかい、ただかたじけなく存じまする。その仰せに従い母に文なす文を書くはいといませぬ。さりながら母の気質はわたくしが末の娘として嫁ぐ日まで母の膝下に甘える月日もながかりしだけに誰よりもよく心得て居ります。わが母時子は一谷にての血族と多くの戦死者がひたすら平家への忠誠をささげてあっぱれも討死に対してわが子息一人の命を助ける条件に応ずるなど考えられぬ気性でございます。わたくしは母が世の常の女とちがって私情よりおおやけの道にじゅんずるのをよく知って居ります。 その母の心を搔き乱すようなはずかしい文は書けませぬ。あしからずお許し下さいませ」
もはやとりつく島もない態度に義兄たちは嘆息して座を立った。が、隆房が舌打ちして兼雅に囁いた言葉は「やはり、佑子の言った通りよの」・・・彼の美しい妻は妹の性格をよく知っていたのだった。
── 二人の客を送り出してから安良井は青ざめた顔で典子のそばに近寄り、
「義兄さま方の折角の仰せを、なぜお断りなさいましたか、神器をお還しいたせば帝も門院さまも京へご還御も叶い、源平の和平成って母君さま御兄弟御一族のお身の上もつつがなく、本三位さまも奈良の悪僧に渡されず四方八方よく納まると存ぜられまするに・・・」
「安良井、そなたは心のどかな者じゃのう。そなたの母の汐戸なら義兄上がたの仰せをお断りした典子の心が手に取るようにわかるであろうに ── 朝廷にとって神器はなくてはならぬもの、また帝と門院が賊軍と名づけた平家の陣営にあってはさぞ法皇もお心がかり、それゆえに是非とも取り返したきものをすべてお手に納められたあとは、心残りなく源氏軍によって平家の一族とその軍団を滅亡させる事こそ法皇のいつもの御結構(政略)よ。一谷で勝利の自信を強く得た頼朝がいかでいまさら平和などを聞き入れようぞ。平家一門の息の根を止めて日本国中源氏の支配に納めずには置くまい。それほどの人ゆえ十三歳で伊豆の流人となられてより、いつしかみごとに源氏再興の旗上げをなされたのよ」
「それはたしかに頼朝はさような野心を抱きましょうが、法皇さまはさすがに入道相国さまとのお馴染みも深かりしだけに平家の為に和平をお考え下さるのではございませぬか」
安良井は諦めかねる。
「そなたはひとりよがりよのう、今までも院の仰せなど忽ち手の裏返した事となり、亡き父君が無念の涙を呑まれての御立腹りゅうふくの数々を典子は知っています。このたびも欲しいものをお手に入れられた後は『ホウ、源平の和平は頼朝が承引せぬでなあ。お気の毒じゃのう』と、それでおしまいで、あとはさっぱりとなされて、お好きな今様いまようなどおうたいになるにちがいあるまい」
典子がきっぱりと言い放つと、安良井は崩れるように打ち伏した。彼女にも典子の言葉がいまさらに思い当たるのである。その安良井の耳にさらに典子の声がさびしく哀しく響く。
「あの西八条のやんちゃな小姫が、このように人の世のからくりの裏の裏まで知ったのも、父君みまかられてより人の世の実相のおぞましきが身に沁みたからじゃ、姫時代に学びし書道、歌道、筝曲の稽古事ではこの世の裏表は知らなんだが、いまこそそれを涙と歎きに鍛えられて識りました。もしも平家安穏にいまも栄えてあったらこの典子などついに生涯まことの世の中を知らずに浅はかに酔生夢死の一生をうかと送ったであろうよ」
典子はこう言って泣く。安良井もさめざめと泣いた。
2021/02/07
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