~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
壇 ノ 浦 暮 色 (一)
屋島を退去した平家軍は関門海峡の彦島に陣を構えて居た知盛の率いる軍兵と合流してそこを根拠地とした。
義経は屋島占領後は平家の水軍に対抗する源氏の水軍の編制に専念した。伊予いよ周防すおうの国からも源氏に応援する多数の兵船が献上された。。義経の水軍編成は約一ヶ月かかって準備完了、元暦二年(1185)三月二十二日に彦島の平家陣営から三十丁の距離の壇ノ浦にと兵船団を周防の海岸から出港させた。
この源氏の水軍の出現を知った平家の船隊五百余艘も彦島を出帆して赤間関あかまがせき(現下関)へ航行、二十三日夕刻から翌暁にかけて壇ノ浦に進んだ。その出帆に先立ち帝や建礼門院、二位局(時子)と女房たちの安全を期するために、その御座船の大きな唐船から、普通の兵船に神器の唐櫃と共に帝、建礼門院、二位局以下を護衛の将士と共に移した。御座船には雑兵たちをあまた乗せて平家の赤旗を押し立て源氏水軍の目に付くように飾り立て、敵がその御座船めがけて攻めるところを包囲して打ち取る謀略をかねて立てていた。
平家水軍の総指揮者知盛がこの源平海戦について心に期するところがあったのは、彼が関門の潮流をよく研究してその智識があったからである。
この関門海峡の潮流の速度と方向は当時の和船には大きな影響を与える。その季節、午前中は西(外海)から東(内海)へ潮流は流れる。平家水軍がこお潮流に乗って進めば源氏側は潮流に逆らい難航して圧迫されて押し流されて不利な立場となる。
それゆえに平家側に有利な潮流の方向があるうちと、早くもの刻(午前六時)に平家から挑戦した。はたして予想通りにの潮流に乗った平家平船団は源氏の船団を追い詰めて海戦は平家に有利に展開した。源氏は不利な立場となったが、義経もまたこの潮流が午後から逆に変化することを周防からの水先案内を命じた三浦義澄から教えられていたので、彼はその潮流の変化を待って防戦につとめて持ち堪えた。
知盛は平家に有利な潮流の方向の間に一挙に敵を敗滅させんと焦ったが、まふぁ大きな戦果を見ぬうちに、無念にも時刻はうまの刻(正午)に達し潮流の速度ゆるやかになると、義経は反撃に出て平家兵船の漕手そうしゅ舵手だしゅを目がけて真っ先に矢を射させた。それにおとりの唐船などには目もくれぬのは、すでに唐船から帝も神器も普通の兵船に乗り代えられた事を平家の家人阿波民部重能しげよしが屋島で源氏に捕らえられたわが子教能のりよしの命乞いの代償に敵軍に内通したからであった。
これでせっかくの平家の謀略も無駄となったが、さらにそれより大きな戦略がはずれたのはまだ勝敗決せぬうちに時刻が移り潮流が次第に東から西へと方向転換するに従い源氏水軍には有利となり、その上平家兵船はこれも義経戦術の奇襲で肝心の漕手、舵手を射られて航行力を失い脱落する者も多く、大混乱のうちに有利な潮流に乗った源氏水軍に追撃されてひつじの下刻(午後三時)には平家船団は壇ノ浦の海岸に追い詰められた、そこには源氏の陸戦隊が待ち受けて平家の兵船に矢の射撃を浴びせる。もはや平氏軍敗北は時間の問題となった。
── とりの刻(午後六時)壇ノ浦に暮色せまる頃、その海上には人影ない兵船があまた傾き並みのまにまに漂い、そのあちこちに血の流れるように赤旗が波にゆられ、海に沈んだ女人の身から離れたらしい美しい小袿こうちぎや、高貴な調度の金蒔絵の耳盥みみだらいなどが波間に浮いていた。
その海の彼方の地平線上に沈みかける夕陽がこの海の戦場の跡を弔うように残照をとどめていた。それは長門国ながとのくに赤間関壇ノ浦の元歴二年ゆく春の三月二十四日の暮色ややに迫る刻であった。
2021/02/09
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