~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
壇 ノ 浦 暮 色 (二)
京都には壇ノ浦海戦の情報はまだ何一つ伝わらぬ三月二十六日、昨日の雨があがってその後は生暖かい晩春の夜だった。
七条家の典子がその夜半ふいに眼覚めたのは、どこからか自分を呼ぶ声がしたからである。
「典子・・・典子」
そういう声は幼い日から聞き馴れた母の時子の声に違いなかった。
「母上さま!」
典子はしとねから飛び立つように起き上がった。たしかに空耳ではない。まさしく母が呼んでいるのだ。その声は北廂きたびさしの間の庭に向かった榑縁くれえん(縁側)のあたりだった。
そこは蔀格子しとみごうしの外である。そこへふらふらと母の声に引かれて典子が出て行くと、細い眉のような下弦のかすかな月を浮かべただけの暗い夜空の下が妖しい仄明るさだった。
「典子!」
その不思議な明るさの中から母の声はする。
「母上さま、どうしてここへ・・・京にお戻りなされましたか・・・」
── もしや源平の和議なって母もこの京へ西国からいつの間にか帰れたのであろうか、それにしてもこの夜半、庭からわが娘を呼ぶとは・・・典子はきっと眼を据えて見ると、そのあたりはおぼろに母の姿が煙で造られた人影のようにぼうッと浮かんだ。しかし母の髪の毛は藻のように乱れて夜風にそよぎ、その足もとにはひらひらと長い海草がまつわりついていた。
「母上さま!」
異常な母の姿に典子は絶叫して駆け寄ろうとして庭に転落したまま意識を失った。
榑縁のあたりで「母上さま」と呼ぶ典子のただならぬ声と物音に、安良井が眼をさまされて典子の姿を求めて出ると、その庭先に典子は横たわっていた。
── 典子が失心状態から意識を回復したのは翌二十七日の午近くだった。
その枕許には姉の佑子が愁いの眉をひそめて見守る顔が第一に眼に映じた。
「お心地で来られて(気絶から覚醒)やれうれしや」
ゆう子はやっと安心した。
「祐さま、典子は夢を見ていたのでしょうか。いまはなんどきでございましょう」
「典さまがお庭先に倒れていられた夜は明けてあくる日となりました。今朝方けさがた七条家からのお使いにて急ぎ参りました」
「では昨夜母君にお会いしてから今までわたくしは眠っていたのであろうか」
そう言う義母の茵の裾に座していた信清が枕辺に近寄って、
「母上はお心のうちに慕われる二位さま(時子)の面影を夜半の夢に御覧になって庭先でお倒れになられたのではありませぬか。安良井の知らせで駆けつけてからl御案じ申し上げ、今しがた医師も呼ばせましたが、 幸いお気が付かれて安堵いたしました」
「まあ、そのように皆々を騒がせて面目ないと思えど昨夜典子の見た母君は夢ではない。たしかにあの榑縁の前に立って居られて、おぐしは乱れお裾には海の藻草のようなを引きずって居られました・・・」
その典子の言葉に佑子は思わず顔を覆い、信清は愁然とした。下手しもてに控える安良井と佑子のお供で駆けつけた汐戸は泣き伏した。
その日の暁には三日前の壇ノ浦の平家敗戦洛中に伝わったからである。未だ委しい事は何もわからぬが・・・もいや二位局(時子)は海にはいられたのではあるまいか、裾に藻を引き摺り幾重いくえ汐路しおじを搔き分けて京の七条邸の庭にまぼろしと現れて鍾愛しょうあいの末姫へ別れを告げられたのではあるまいかと ── 佑子も信清も安良井、汐戸も言葉がなかった。
その時あわただしく医師が現れたが、昨夜の夢遊病者は正常に戻っていたのだった。
── 四月四日、首夏しゅかの雨の下の京都に義経の使者が壇ノ浦海戦の勝報を委細報じた。もうそれは平氏敗北ではなく、再び立つ事のない平氏滅亡であった。そして典子の過ぎし夜の怪事による佑子たちの予感は的中したのである。
2021/02/09
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