~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
建 礼 門 院 (一)
元歴二年(1185)五月に入って間もなくの日、二台の牛車が雑色たちを従えて、洛中から東山麓の里に向かっている。
昨日きのうまでの五月雨さみだれが今日は嘘のようにかっと晴れあがったが、洛外の野道はまだところどころぬかるみが深く、黒漆くろうるし塗りの車輪が進みなやむと牛飼童の牛への掛け声がかん高くひびくだけであとはしいんとした村落の道だった。
前の牛車には冷泉院北の方の佑子と、その妹七条典子が同上だった。後に続く車には汐戸、安楽井のお供の乳母どのが今日の遠道に車を戴いたのである。
牛車の中で姉妹は語り合う。
「六波羅、西八条の一門こぞって都落ちより足かけ三年の月日はこの典子には一日として安らかな日はなかったに、今日はほっとして心の重荷がとれたような・・・言うに言えない気持・・・」
その典子の言葉を引き取って佑子が、
「それはわたくしとて同じこと、万が一にもと願ったことが、もうすべてはかなく終わったとなれば、もうこれ以上わが生涯に怖ろしい不幸はないものと肝がすわりました。典さまも同じお心持と思います」
「ええ、祐さまのおっしゃる通りほんとうに肝がすわりました。これほどに辛い思いや落胆をさせられたからには、もうこの世の中に怖ろしい事も悲しい事もなくなりました。母君、兄弟、叔父上たち、従兄弟いとこ、血族のすべて滅び去ったという悲劇のほかに、この世にもう怖ろしい事があろうとは思いませぬ」
「この上は、亡き母君、兄弟、叔父君一門と最後まで戦った六波羅武士の冥福を祈って、そして御運あまりにつたなかりし建礼門院さまのため少しなりともお役に立つようにいたすのが、亡き母君への御恩返しと佑子は思って居ります」
幼い九つの時に、あの尼寺から西八条に引き取って育てられたさぬ仲の母時子にいつも報恩の心を忘れぬ佑子だった。
「それにしても、女院はいったん帝と母君のあとを追うて入水じゅすいされながら、敵兵に熊手でお髪をからめとられて・・・みすみす憎たらしい九郎判官(義経)に救われるは、典子無念でなりませぬ」
「それは女院もさぞかし死にまさる御無念でございましょうけれど、いったんそうなったからには、もう女人の身でふたたび海へお逃れにはなるますまい。同じく入水を覚悟の女房たちも船べりに衣裳の裾を矢で射止められて敵の手に捕らえられたと申します。男という者のする戦争には女はいつも弱いはかない立場ではございませぬか」
そう言う佑子のいつも誠のこもるしっとりとした顔を見詰めて典子は考える。
── 平家栄ゆる絶頂の頃、かつての高倉帝の御幸を仰ぎし西八条で対屋の姉妹が帝に晴れの謁見えっけんの折に、ひときわろうたけて美しい祐姫に帝の御眼が止ったという。
それゆえに、徳姫入内の計画のさまたげにならぬようにと、冷泉隆房の祐姫への執心を幸いに、無理やり急いで嫁がせられたが・・・もしあの時に祐姫が入内していて、やがて壇ノ浦まで平家と運命を共にして入水されたら、不幸にして熊手で救い上げられても、祐姫ならおそらく舌を噛み切って失せられたでありうと考えずには居られぬ典子だった・・・。
── 牛車はその時止った。建礼門院ひそかに世を忍んでの隠れ家にようやく到着したのである。
雑色が牛車の前にしじ(乗降用足台)を備え佑子と典子が車の簾から出て降り立ってそのあたりをひと眼眺めるなり息もつまる悲惨な思いに打たれた。
そこは実憲律師とやらの僧房だった建物と聞いていたが、もういつの頃その法師が住んでいたのか、まったくの廃墟同然で軒は去年こぞの落葉をまだ積もらせて傾き、縁の板は歯の抜けたようにあちこち朽ち落ちている。それを囲む庭などは丈なす夏草に覆われて僅かに人の通る一筋が踏みしだかれて建物へのかよをつくっていた。
2021/02/11
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