~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
建 礼 門 院 (二)
「まあ!」とも「あら」とも声も出せぬほど姉妹は悲歎の顔を見合わせて立つと、後の車から汐戸と安良井が雑色たちに手伝わせておろすのは、建礼門院への姉妹二人からの贈物、唐匣からくしげ(化粧品、用紙、薫物たきものを三重の箱に納め重ねた)と鏡箱、この季節の生絹すずし単衣ひとえ小袖に袴の数々を納めた柳筥やないばこ、洗面用の耳盥みみだらい、それと季節の果物を入れた外居ほかい(黒塗の桶)である。それらを雑色たちにかつかせて、主従四人の女人が朽ちた板縁から声かけると、現れたのは半白の髪に古びた単衣小袖にせた袴の下級女官風の老女である。
「建礼門院をお見舞いに佑子、典子参上いたしました」
女院の隠れ家があまりにも惨憺と見えたので典子の声もかすれていたのか、老女官はきょとんとした顔つきで、
「なにやら年齢と共に耳が遠くなりまして」
と言うと、汐戸が進む出て彼女の耳に口を近づけて声を張り、
「建礼門院の御姉妹おふた方、冷泉北の方と・・・」
と言い続けようとするより早く奥から生絹の小袖に切袴きりばかまの姿で急ぎ足で中年の上﨟じょうろうが現れて、その縁先に立つ一行を見るや、改まって膝をつき、折り目正しき口上で、
「これはこれは、かかる草深き所までお越し戴き女院もおかばかりかお喜びでございましょう」
それは、佑子、典子も顔を見知る阿波内侍あわのないしであった。彼女は建礼門院の中宮時代からお里帰りのお供をして西八条にも来た人である。壇ノ浦から女院と共に生還したのだ。その内侍の顔を見ると佑子たちもようやく人心地がして、踏めばきしんで音のする板敷を踏んで導かれて奥へ入った。この僧房の跡は広いが人の雨露うろを凌げる場所は僅かな部分なのであろうか、昼も仄暗いその板敷の広間の向こうに、古びほつれた御簾が片はずれした形でかかっている。
阿波内侍がその御簾を巻き上げると、その中に置き据えられた像のように身じろきもせずすわっていられる墨染の法衣ころもを身につけた尼僧が顔を向けられた。剃りたての青々とした剃髪の姿に、やつれて頬も身も細られたが、それがまさしきかつての御国母と仰がれた姉君徳子と知るや典子は“あっ”とたまぎる声を出しかけたが、佑子が落ち着いていたのは、やがてはそれが必ず女院の辿られる道とうなずけたからであえる。
墨染の法衣の建礼門院はいま姉妹二人の姿を見て言葉もなく万感胸に迫ってか、ただ眼もとをうるませられるばかり・・・佑子、典子もまた無言だった。けれども姉妹たがいに物言わねどおのずと悲しさや懐かしさは交流してゆく。
その傍で阿波内侍が女院の語られようとする言葉の代弁をした。
「この隠れ家にお入り遊ばされて二日後にぜひにと御出家のおお志にて受戒じゅかい(仏門の戒律を授ける)の師は長楽寺の印西上人つかまつられて御落飾らくしょくでございました。大納言典侍それまでのお介添かいぞえいたし墨染の御衣も調えられましたが、典侍は昨日から日野(現京都伏見区)の姉上の許に行かれて、お眼にかかれずあいにくでございます
大納言典侍輔子すけこは壇ノ浦で海に沈まれた幼い帝の乳母で、かつ一谷で生け捕られた重盛卿の妻である。その姉邦子くにこはかつての高倉帝乳母であった。この姉妹とも五条大納言邦綱のむすめである。
佑子や典子にはその大納言典侍が建礼門院の傍を離れて姉の許に去ったというのは、その後の重衡の生死を案じ、一度良人に会う機会を待つためと推察することもあわれであった。
「御落飾ともつゆ知らずなんのお介添えもいたさず本意なきことでございました」
佑子はそれが残念だった。今日ここまで運ばせた柳筥には生絹の単衣小袖、紗の小袿こうちぎなども調えて来たのにもう何の役にも立たぬとは不覚のことと思う。
「御衣裳ははお役に立ちませぬが、唐匣からくしげ、鏡箱などお用い下さいませ」
典子が言うと、佑子は汐戸をかえりみて、
「その調度をこれへ、そのなかの薫物たきものなど早速にくんじて差し上げたい」
と言ったのは、建礼門院の御座所の裏は軒近くまで竹藪が生い茂り、昼も藪蚊が飛ぶ気配で、そこに粗末な素焼の皿に杉の葉がいぶされてあるのが眼に入って胸せまったからである。
汐戸が唐匣から取り出した青磁の香炉に伽藍の香木を削った二、三片に用意の火打石で火を点すと、ゆらゆらと香煙が立ちのぼる。
2021/02/12
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