~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 怨 霊 (一)
壇ノ浦から生還の宗盛たちの処置については、法皇のもとに朝臣集まって論議したが、公卿のなかでも智識人をもって任ずる藤原兼実ら二、三のものは義経の希望するように宗盛たちを死刑に処するには抵抗を覚えた。
兼実たちはかつての平家がながい年月を朝廷に仕え政事にたずさわり、大輪田の港口を築き音頭の瀬戸を開鑿かいさくした等の国家的の功績に対しても、その嫡子には死を免じて地方に遠流の刑にとどめるべきだとの説を主張したが、同じ有力な朝臣のしかも平家の姫を妻にする摂政の高職にある近衛基通も、大納言花山院兼雅も冷泉隆房中将も宗盛助命には後難を怖れる如く口を閉ざしていた。
結局、宗盛親子は死罪、平時忠は神器奉還の功で死罪をまぬかれて能登に流罪、平家の都落ちに第二皇子守貞親王を伴った罪科で元法勝寺執行しぎょうの法印能円は備中に流刑と定められて直ちに鎌倉幕府にその官符かんぷ(太政官通告書)が送られた。
宗盛父子の死罪決定で義経はその生ける戦利品を兄頼朝に誇るべく鎌倉に護送するために京都を出立したのは、建礼門院が出家されてから数日後であった。
義経が道を急いで、やがて鎌倉を眼の前にする腰越(当時鎌倉外)に到着すると、そこには兄頼朝から使者が兵を従えて待ちかまえて、宗盛父子を引き取ったが、義経への使者結城ゆうき朝光ともみつは告げた。
「九郎判官殿の鎌倉へ入らるるを許さずと御所(頼朝)より仰せ出されました」
「こわ何事ぞや!」
義経は思いもかけぬことに愕然と驚いた。
「この身は数々の戦功を立て平家大将大臣父子を生け捕りて此処まで参った以上は、一度は兄上と対面せずにおめおめと帰れようか」
と、怒りを込めて言い放ったが、天下の支配者として君臨する兄の命令には、その異母弟といえども服さなばならなかった。
義経は兄の許可を得るまではと粘ってその日から腰越の満福寺に滞在したが、いつになっても兄からの鎌倉入りの許可は受けられず、悶々もんもんとして居る時、満福寺の寺僧の口から、
「今日の公卿の御出身にて鎌倉へ下られし大江広元こそいま鎌倉殿の御腹心第一の方と評判されます」
と聞くと、義経は京都で法皇や公卿に並ならぬ好意を持たれた経験からその京下りの公卿出身の未見の大江広元にも親近感を覚えてすがる気持になり、兄の信任第一の側近官僚に当て、至れり尽くせりの歎願状を苦心して書いた。戦争には強い武力一辺倒の彼にはそうした心情を吐露する文案は苦手のはずで、おそらく満福寺の住職あたりの協力があったかと思われる長文の哀訴の歎願状を広元の許に送り届けた。
「源義経恐れながら申し上げます。鎌倉殿の弟として平家追討の勅宣を蒙り朝敵平家を滅ぼし源氏累代るいだいの武芸を発揮いたし父義朝の恥辱をそそぎ、御褒賞にあずかるべきを意外にも御勘気を蒙り涙に暮れて居ります」云々から始まり ──「腰越まで来てお眼にもかかれぬは骨肉同胞の甲斐もなくわが運命の尽きるところか、前世の約束かと悲歎に沈みます。亡き父義朝公の霊魂あらばこの歎きをなんと思われるでしょう」と、それから過去の戦場での苦心と努力をさまざま書き連ねて、「ひたすら頼むは大江広元殿の広大な慈悲心のみです。何卒この心中を鎌倉殿に申し上げて御とりなし賜りたく伏して願い上げます。義経恐惶謹言きょうこうきんげんす」とようやく結んだ一谷、壇ノ浦での勇将と思えぬ哀れに女々めめしい歎願の書状は大江広元の許に届けられて読まれたが、広元のきびしい冷酷な顔はそれによって動いた色もなかった。
2021/02/14
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