~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 怨 霊 (二)
広元は腰越で義経に会った使者の結城朝光を呼んで問うた。
「九郎判官殿はどのような風采か」
「御兄弟ながら御所さまの御立派な御容儀とは異なり小男にて向かい歯(反っ歯)が目立ちます」
朝光は主君頼朝の勘気を蒙った義経にはおのずと冷淡であったし、事実頼朝は後世に残るその肖像画によっても端正な気品整う顔立ちだった。けれども義経は後世の判官びいきの空想の歌舞伎舞台や羽子板の押絵の優美な判官さまのようでは、戦場の奇襲戦法で敵を皆殺しには成功しなかったであろう。
広元はその彼の歎願状を前にしばらく氷のように冷たい表情で考える ── この小男で反っ歯の男が戦争という集団殺人の手腕にすぐれて、一谷では鵯越ひよどりごえの逆落しの猛勇を振るい、壇ノ浦では平家の船団の漕手とかじ取を先に射殺して平家の船を袋の鼠としてゆいに幼帝を抱いて亡き清盛の妻時子を海に投じさせ平家一門をこの世から滅亡させたのだ。
一谷で戦死の平家血族と部下武将たちの首を洛中に曝して獄門にかける残酷な仕打ちは、さすがに法皇も心ある朝臣も反対されたに「もしこれを行わずば父義朝の怨みは晴れず」と言い張って義経は敢えてそれを行ったが、義朝は平治の乱で六波羅軍勢に敗北して東国に落ち行く途中の尾張の豪族長田おさだ忠致ただむねという源氏代々の家人にたばかれて首を打ち落とされ、忠致はその首を六波羅に持参し「一国を賜りたき手柄」と申すに清盛は烈火のごとき義憤に怒り「旧主をしいてその首を敵に手柄顔に差し出すとは悪逆無道の振舞い、もし汝を賞するなれば平家末代までの恥辱、亡き頼朝公への手向けに逆臣汝の首を献げん」と近習に命じて忠致を斬らせたではないか。
やがて、その義朝の遺児の頼朝少年が捕らえられて六波羅に連れ来られし折に、継母池の禅尼は仏心を起して命乞いをしたといえども、もし清盛がそれに従う寛容の度量を持たねば生命はなかったであろう。続いて幼い異母弟三人が生母常磐と現れた際も、女人のあわれに弱い清盛が敗将の幼児とその生母に哀憐を覚えて出家を約束させて救わずば今日の頼朝も義経もないはずだった。その一事を顧慮することもなく、清盛の人物の大きさとはあまりに差のある勝者義経が敗者平家一族への残酷な処刑が広元には不快で反撥を感じさせる。というのも ── その頃京都から広元と三善康信の二家族が鎌倉の良人の許へ到着した時に広元が妻の雪から ── 冷泉北の方佑子の乳母汐戸が烏丸奥の二家族同居の家へ訪れて「鎌倉が近き所ならば大江広元さまにお縋りいたし、平家一族の首の引きまわしや獄門の沙汰を止めて戴きたいに・・・」と泣き伏したと聞いた時は暗然とした広元だった。その乳母汐戸も広元の記憶にある。ましていまだに心の底には、水底に沈む美しい面影として消しがたい祐姫、嫁いで冷泉北の方、その平家の姉妹姫たちの歎きを思いやると海辺の鎌倉にひびく潮騒が遠い京の都の平家の姉妹の忍び泣きのように、この冷徹な政務官の感傷をそそるのだった。
いまその義経が戦功を誇ってやがて死罪の捕虜宗盛父子を引き連れて意気揚々と鎌倉に入ろうとした。だが兄頼朝にはそれを許さぬ理由がある。弟といえども源家の一家けにん人として扱うおきての兄には、まず第一に弟が兄の手を経ずに勝手に法皇から左衛門尉検非違使の位階官職を拝命した僭越せんえつな行為。第二には義経の戦功に反して源家の家人からは義経の専横に誹謗の声が起きている。
第三には壇ノ浦にて三種の神器の一つを失いしこと等々、頼朝には気に入らぬことが重なっている。
現在の鎌倉幕府は源平の争闘終結と同時にもはや武力に代えて智識分子の政務官僚を必要とする時代を迎えている。頼朝は心中ひそかに武勲を鼻にかける弟の将来の跋扈ばつこを憂慮した。この単純な武辺者ぶへんものが兄の覇業はぎょう成りしは弟のわが戦功のおかげなぞと思い上がられてはやはて大いなる禍根となろうと、それを未然に防がねばならぬと意を決している。それが手に取るように側近第一の信任を受ける広元にはわかる。
2021/02/15
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