~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
平 家 の 怨 霊 (三)
── 広元はともかく義経の歎願状を形式的に頼朝に差し出したが、頼朝は「近く沙汰する」と以心伝心いしんでんしんに広元に言っただけである。
── 義経は腰越で足止めされたが、捕虜の宗盛父子は輿こしに乗せられて騎馬の侍に囲まれて鎌倉に入ると、生け捕りの平家の頭領を見る者道路に溢れる中を若宮大路を渡って横大路から頼朝の居館に入り、その西御門にしみかど近くの対屋に置かれ、その夜の夕餉の膳を出されたが、宗盛父子は愁いに沈み切って箸を取らなかった。
やがて、その幽囚ゆうしゅうの父子にふたたび腰越の義経に伴われて立ち去る日が来た。それは義経がついに兄との対面不可能と諦めて奮然として京都に向かうのに托されたからである。頼朝兄弟の悲劇はここに始まった。
兄にうとまれるは一人義経のみならず、やがて範頼、そしてかつて以仁王の源氏復興の令旨を伝達した叔父の行家も、頼朝の意志によって直接間接にこの世から消されてゆくという源家兄弟血族の悪縁が展開する。
── 宗盛父子が鎌倉を去るに及んで頼朝はその父子を引見しようとした。これは先に重衡が鎌倉下向の際に対面した例によるものだった。重衡は頼朝に歓待されたが、いま壇ノ浦で平家滅亡後の頼朝の態度は違っていた。彼は腹心の広元に向かって「いかなる対面の形式をとるべきか」と問うた。そういう事にまで広元の判断を求めるとは、頼朝がいかに広元に傾倒していたかがわかる。その時に広元は直ちに答えた。
「現在の鎌倉殿はすでに従二位に叙され給う。前内府(宗盛)はいま朝敵、御対面といえども御簾みすの中にて御覧ぜらるるに止められるが至当と存ずる」
それは広元が京都での官吏生活で公家社会の慣習に通ずるゆえの判断だった。
宗盛はそのために対面というより御簾の向こうの頼朝に見られるだけで終わった。けれども宗盛はともかく頼朝の前に出たことにせめて一縷いちるの望みを抱いたかのように、
「もし幸いにわれら父子の生命を助けらるるならば、直ちに出家いたし世に隠れて生涯を終わらん」
と声涙共に下る言葉を述べた。おそらくこの薄幸の平家父子はすでに自分たちの死罪決定の官符が鎌倉に到着しているのを知らなかったのであろうか。たとえその官符がなくても頼朝はこの平家の嫡系父子をけっして生かしては置かない。なぜなら、源氏復興なったのはかつて平清盛が敵将の嫡子の生命を奪わずに伊豆に流して無事に成長させたからだとわが身の幸運を知るだけに、平家男系の血族はたとえ嬰児えいじであろうとも草の根を分けても探し出して根絶やしの方針だった。これは彼自身の思考だけでなく、むしろその外舅がいしゅうの北条時政、伊豆時代の流人頼朝の未来に賭けて娘政子を嫁がせて以来の後援者としていま鎌倉幕府に威を振るうこの時政の老獪ろうかい非情な方針と言うべきで、頼朝の義経への疎外感も時政の扇動があったと思える。
それゆえに義経は兄と対面の哀訴も効なく、京へ帰る近江路の篠原で、宗盛父子を斬りその首を京の獄門にかける悪役をまたも勤めなければならなかった。弟の重衡は去年から蟄居の伊豆から奈良の僧徒に引き渡さるべく、鎌倉から護送の侍たちが付いて、大津、山科やましな、醍醐路へと送られたが、そこは重衡の妻大納言すけが姉の許に身を寄せている日野に近かった。重衡は妻にひと眼会って別れを告げたく、護送の侍に歎願すると、幸いその侍たちが武士の情を知るものたちで「苦しからず立ち寄り候え」と許したのは、宗盛父子が義経に旅路の途中で涙もなく首ねられたよりは仕合せで、不幸中の幸いであった。
2021/02/15
Next