~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
再 開 (一)
建礼門院は野河の御所で大地震にあわれて二ヶ月後の晩秋の頃に洛外大原の寂光院に入られて、今までの仮の棲居と違って御出家の生涯にふさわしい尼寺をそこに得られた。
大原は周囲を山に囲まれた閑雅静寂の地で王朝以来貴族の別荘地であり、隠者の世をいとうて棲む別天地とされていた。そこにこの寂光院という古い無住のいおりがあると聞いた七条家の信清が人をやって調べさせると、本堂は荒れてはいるが庭には山清水の流れ入る清浄な水に浮き草が茂り、池中のささやかな中島の松に山藤がからんでその花の頃は美しいと思われ、庵のまわりには山桜が多く、山吹、萩などもあり、手を入れるなら御出家の女院の尼僧院にふさわしい眺めともなろうし、また本堂の本尊は丈八尺の地蔵菩薩の立像で、壇ノ浦に沈まれた幼帝の供養を生涯念じられる女院にはまことにふさわしい本尊とも思われた。
新帝の母后七条院の内密の計らいを信清が受けて本堂は修復され、新たに小さい庵室が建て増しされて、その一間ひとまを女院の起き臥しされる御居間に、次の一間に同じく出家した大納言すけ、阿波内侍が棲み、そして耳の遠い元女蔵人にょくろうど水仕みずしに仕える。
その寂光院に女院移らるるについては、七条家の奉仕がひとかたならぬ事であったが、冷泉家北の方もまた野河の御所からお引き移りのために牛車二輛と手伝いの雑色たちをも奉仕させた。
御国母たりし建礼門院が入られた尼僧院ながら、その寂光院にはなんの寺領(寺の財産)もなく、生活のかてはやはり七条、冷泉両家の北の方からの配慮だった。佑子も典子も入輿の際には相当な荘園を持参したのでその自由も利いた。
その年も暮れて翌文治二年(1186)の晩春、寂光院に関して七条典子を愕然とさせた事が起きた。それは後白河法皇が大原の里に建礼門院を訪れられたと聞いたからである。その御幸に供奉の朝臣の中には、じぶんたち平家の姉妹を妻とする花山院兼雅、冷泉隆房中将も入っていたという・・・。
典子は姉の佑子を訪れてその大原御幸について委しく聞きたいと冷泉万里小路の牛車を向けた。
お供で安良井は冷泉家へ行く折は母の汐戸と次の間に退いて語り合う暇を戴くから、姉妹は佑子の居間の北の対では誰はばからず語り合う。
「典さまにはいずれ院の大原御幸のお話をいたさねばと思うて居りました。さぞお驚きなされたでしょう」
「これが驚かないで居れましょうか、平家をあのように無残にお見棄てになり源氏に平家討伐の院宣いんぜんをお与えになった平家滅亡の主謀者ともわたくしには思える法皇さまがなんと思召してわざわざ大原の里まで建礼門院をおたずね遊ばされたのでしょうか、憎い平家の娘が尼となってあの山里の侘しい庵に居られるのを面白おかしゅうお眺めになるためでございましょうか、この典子には合点が参りませぬ」
典子はいきり立っている。
「典さまのように、ひたすらしざまに思い詰めては法皇さまもお困りでございましょ・・・」
「あの法皇さまが何をお困りになりましょうぞ。いつも人を困らせる名人でいらっしゃる・・・それともこのたびの御幸は義兄君方の花山院や隆房中将のおすすめによるものでございましょうか?」
「いいえ、そのような事はございませぬ。勘解由かげゆ小路こうじの義兄君(花山院)も隆房中将も源氏の世代となりては平家の娘を妻とする身のいかにも肩身の狭い思いをなさるに、思いもかけず院から建礼門院を訪れて慰めたいと仰せられた時は、まことに驚いたようでございます。法皇さまもかつてよしみ深かりし平家の滅亡にはお心が咎められるのでございましょう、先頃も高野山に平家供養塔の建立を仰せ出されたとか・・・」
佑子は何もかも呑み込んで落ち着いているが典子はまだ憤怒の表情を変えず、
「昨年のおお地震ないも亡き父(清盛)が竜王になられて大地を揺り動かされたと巷の人々の口にのぼりましたそうな。それにあの鎌倉殿と九郎判官の兄弟の憎しみ合いも平家の怨霊おんりょうたたりと噂されますとか、法皇さまもお寝覚めの悪いことでございましょう、ホホ。九郎判官兄弟の仲も法皇さまが煽り立てられたのではございませぬか、判官が鎌倉に入られず追い帰された憤懣やる方なく兄頼朝討伐の院宣を願い出ればよしよしとお聞き入れになり・・・」
「それは兵力を持たぬ朝廷のお弱さから判官の怖ろしき権幕に院も朝臣も致し方なかったと思われます」
佑子はおだやかになだめるが、
「さりながら、あまりの朝令暮改ちょうれいぼかい、その後鎌倉から頼朝の使者、北条時政上洛いたせば、たちまち義経討伐の院宣をお与えになるとは御卑怯・・・」
典子は歯に衣着せぬ表情である。
「それと申すも朝廷と京の公卿たちは武家の勢力強き方になびくが弓矢を持たぬ身のただ一つの保身の術・・・さりながら平家、世から失せた今は朝廷も朝臣もどの武士群にどうなさろうと、わたくしどもには何のかかわりもないこと、ほっといたします」
典子よりもさすがに佑子は大人でその点さっぱりと悟りを開いている。
2021/02/17
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