~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
時 の 償 い (一)
文治三年(1187)三月二十四日は壇ノ浦平家滅亡の三周忌に当たる。
その回向えこうが大原寂光院で平氏女系として今も世にある姉妹だけでひそやかに行われた。
実家没落後はまったく引き籠られる花山院北の方昌子もさすがに当日は大原まで牛車で辿られた。前摂政近衛基通の北の方寛子はかねて病弱で大原までの牛車にゆられるも危ぶまれて御名代が仏前への供物くもつを届けた。あとは日頃から時折に寂光院を訪れ建礼門院に生活の援助を続けられる冷泉佑子、七条典子が汐戸、安良井を従える。典子の義理の嫡子信清が五歳の眉目美しい一女玲子を伴って参会したのは信清の室が身重のためにその童女を名代としたのであった。
その一行が寂光院のささやかな門にさしかかると、山懐やまふところの大原の里の遅い春も山桜がすでに散りかける残りの色を点々とまわりの山腹に彩り寂光院の庭にも散り敷いていた。
「まあこの里はいまがひときわ美しい眺め!」
と典子が思わず声をあげると、門辺まで迎えたあの耳の遠い元女蔵人のいま水仕の老尼にもそれが聞こえたのか、
「はい仰せの通り、ゆく春の大原は絵のようでございます。この美しい季節に御法会とはなんと平家一門にふさわしい御回向かと思われます」
と追従ならぬ真顔である ── その時本堂を降り立って庭先まで迎える阿波内侍に、
「女院もこのような極楽浄土のような気色の中にお暮しにて安堵いたしました」
と言うのは、この日初めて訪れた昌子だった。
「何を仰せられます。大原も春のみではございませぬ。冬はきびしく山は枯れて眠り、この庵も雪に埋もれまする。あの右京大夫うきょうのだいぶが昨年冬に参られしその頃はまことに寒々とおさびしい思いをなされたでございましょう」
と阿波内侍は、花山院北の方の楽観的の寂光院印象を訂正せずにはいられなかった。
昨年冬のきびしい蕭条しょうじょうとしたこの里に、建礼門院が入内の日から付き添って仕えた、かつての西八条の姫君方の学友奈々の方右京大夫は父の世尊寺伊行と夕霧との死別後は歌道に専心し、長楽寺近くに棲んでいるが去年の冬には大原の雪を踏んでかつて仕えし中宮を訪れたのである。彼女と恋を語った平家の公達資盛も壇ノ浦で果てた。
── 本堂での回向は建礼門院の真如覚尼はいつしか身に付けられた読経の声もしめやかに大納言すけ、阿波内侍もそれに唱和 ── 香煙は縷々るると御本尊の地蔵菩薩の慈顔に立ちのぼるのだった。
その前にひたすら経文を誦される建礼門院の亡き父母一門の血族への心からなる手向けのなかにも、八歳で海に沈まれた幼帝への母の尽きせぬ痛恨がどんなに大きな部分を占めらるるか、恐らく女院のこらからの生涯のすべては安徳帝への愛の追憶に占められるのであろう。女院は高倉帝の后ながら帝には七条院を初め小督こごうその他幾人かの寵女があり、国母徳子が独占出来たのはわが子安徳帝一人であったのだと、御姉妹はいまさらにそれを思う。
その長い読経の間、昌子、佑子、典子の姉妹には」父君母君のありし日の面影、西八条新築祝いにちんを贈られた門脇の叔父君、都落ちの途上藤原俊成に一巻の歌巻を托した末の忠度叔父、笛のたくみなりし従弟の美少年敦盛・・・それからそれへと今は亡き面影のなつかしさは切なかった。
やがて姉君の花山院北の方から長幼の順で焼香に立ち、信清に手を引かれた可憐な玲子も焼香、小さな手を合掌する。そして汐戸、安良井も・・・人の数は少ないが誰も彼も心を込めてこんぽ焼香の終わった頃 ── 馬の蹄の音が寂光院の門から響いた。秋には時々鹿が迷い込むことがあるが、馬の蹄といななく声は珍しかった。
2021/02/20
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