~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
時 の 償 い (二)
そこへ元女蔵人の老尼があわただしく駆け込むようにして膝をつき、
「ただいま、鎌倉幕府の御使者大江広元さまとお名乗りのお方が女院さまにお伝えのことあって御入来でございます」
大江広元! この名は一座の姉妹、ことに佑子と典子とそして汐戸に青天の霹靂へきれきと響いた。ただ他の人々には鎌倉幕府の使者というのが驚愕を与えた。まず信清が一同を代表してかつはかつての学問の師を迎えに門に向かうと、汐戸、安良井は庭に降りて早くも腰をかがめて使者を迎える姿勢となる。
本堂では須弥壇しゅみだんに近く女院が、つづいて大納言佐、阿波内侍が侍座する、片側に姉妹三人が居ならぶ ── やがて烏帽子に凛々しい直垂姿で、鎌倉風俗の大江広元が古びた本堂の階段きざはしをのぼって進み入る、数人の従者は庭に膝を折って待つのだった。
かつて若き日の西八条での家庭教師の一学生がくしょうの広元はいま鎌倉幕府の壮年の政務官としての威儀を身につけてしかも出身は京の公家育ちの気品ある作法で女院の前に座し、
「このたび、鎌倉殿御台所の思召しにより、建礼門院御入寺の寂光院の寺領として摂津国真井まい、嶋屋の両荘を進ぜられるべき御沙汰あり、折から公務を帯びて入洛のこの身その伝達の使者として参向仕りました」
声さわやかに申し述べて、携えた奉書の巻物の安堵状(所有地承認書)を女院に差し出すと建礼門院は水晶の数珠の御手で濡るる瞼を抑えられて言葉もない。傍の大納言佐が女院に代って両手で安堵状を押し戴いた。この日この刻、ささやかな尼寺の寂光院は二箇所のゆたかな寺領を持ったのである。
使者の勤めを果たして後、広元は一礼して女院の前を退がってくつろいだ態度で昌子、佑子、典子に顔を向けて、
「思いもよらず平家御一門の三周忌に当たり、かく直系の女人がつどわれました。侍従信清も七条家の縁につながり参向いたして居ります」
「おおこれはよきところに広元参上いたした。この身も平家にはかつて御縁ありし者として御焼香をお許し下されよ」
ものの響きに応ずるごとく典子が応じた。
「広元さまの御焼香は亡き母上さぞかしお喜びなされましょう」
広元は膝を正して進み出で謹んで香を焚き礼拝して戻ると一座の女人たちの眼はみな濡れていた。
「思えばこの広元若き日に西八条に通いし頃が生涯のよき時代に思われてなりませぬ。あの頃はただ学問一途のひたむきな若者なりしが、いまは政治という俗務に忙殺される身となって文も詩も案ずるゆとりなき非情の日々を送り居ります・・・されどやがては、あの頃、祐姫が好まれし白楽天の詩 ── 槐花かいか雨にうるおう、新秋の地。桐葉とうよう風にひるがる、夜ならんと欲する天。尽日後庁じんじつこうちょう一事なく、白頭の老監、書を枕にして眠る ── の長閑のどかなる老境を迎えたしと切に願うのみ!」
祐姫の頬にこの時さっと血がのぼる気配が見えて美しい眼差しを広元に向けた。その瞬間こそ彼女に恋知りめた対屋の姫君の眼差しがよみがえったのだった。そのひとの眼差しを深く納めて広元は座を立った。
「このたびの上洛は鎌倉幕府の種々の公用を帯し身として心せわしくお名残り惜しくもこれにて ── 侍従信清殿には京に滞在中また御意を得る折もありましょう」
と本堂を立ち出る。さきからその庭先に控えた汐戸に気づいた広元はつかつかと近寄り言葉をかけた。
「おおそなたは汐戸どの、わが若き日にねもごえおのお心づくしを受けしを広元忘れ得ぬ」
汐戸は胸が張り裂けそうになって頬を熱い涙がつたわるばかりで声も出ぬ。
信清に門まで送られて馬に跨り供侍を従えて立ち去る広元の一行は大原の落花の道を遠ざかった・・・。
2021/02/20
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