~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
時 の 償 い (三)
── しばらくして寂光院の門を幾台もの牛車がつづいて出たのは今日そこに集まった建礼門院姉妹の帰られるのだった。先頭の一台は花山院北の方とお供の女房、それに続く冷泉北の方の車に典子が同乗していた。
「こうして祐さまのお車にごいっしょに乗ってお話しせねば居られぬほど、今日はさまざまの物思いで胸迫りました・・・広元さまが平家滅びし日の三周忌にあのようなお役でわたくしどもの前においでになるとは ── 亡き父君母君があの世でご覧になったら・・・」
典子の言葉にも佑子は無言だった。その無言の佑子を責めるように言い続ける。
「祐さまはあの方(広元)についてはいつも貝のように口を閉じられて・・・広元さまとあのように心を通わせられた頃も、なにも仰らずに素直に冷泉家へお輿入れなされました。もしこの典子だったら西八条を脱け出しても広元さまの許に走ります。そうなれば母上のお心も折れて祐さまの婿君になされたかも知れませぬに ──」
その時、初めて佑子が答えた。
「もしこの佑子が広元さまの許に走ったなら、今日の広元さまはおありにありませぬ。わたくしと結ばれたた広元さまは必ず平家と共に都落ちされていさぎよく壇ノ浦で身を滅ぼしていられたでしょう。わたくしはあの方のすぐれた智能を思うがままにおのばしなされる御生涯をそこなわずにづんだと、今日のお姿を見てしみじみと思いました・・・あの寂光院への寺領の御寄進も広元さまの蔭のお心づくしかと思われます。広元さまとわたくしのことはもう過ぎ去ったこと、時は付帯を割いて幾年月を別れ別れに・・・でもそれをつぐのう時はめぐり来て今日あの方がわたくしの前に建礼門院への喜ばしい使者となって現れて下さったではございませぬか」
── この美しく優しい姉と広元との恋は実らなかったが、それは恋愛を越えていま一つの人間愛に高められている。姉の心の底には今日ある広元の生き甲斐あるみごとな男の生涯を喜ぶ仕合せがあり、広元はかつての恋人のためにその姉妹の建礼門院のためにひそかの計らう喜びを知ると思うと、典子はその感動に身を委ねて口を閉ざした。
やがて ── 佑子が気を変えるように明るい声で言う。
「わたくしは二人の若を持ちましたが、姫を欲しい願いは叶いませんでした。今日信清さまの愛らしい姫を見るにつけ羨ましくて」
「まあ、それなら佑さまの若(隆衡)の北の方にあの玲子をお貰いあそばせ」
「さりながら親の望みだけでは許嫁してはあとで恨まれましょうゆえ、叶うなら筒井筒の幼馴染から恋をして欲しいもの、折にふれて隆衡を七条家へ遊びにつかわしましょう」
「その縁談は典子がお引き受けいたします。信清どのは祐さまをあがめて居られますゆえ、必ず大喜びでございましょう」
二人はおいおいに心も言葉もはずんだ。
「二年前の壇ノ浦以来あの悲しみに閉ざされてのみのわたくしたち姉妹の上にも、なにかほのぼのと一筋の明るい光が洩れて来るような気がいたします」
典子がいうと、佑子もうなずいた・・・そしてもう何も語らずとも、やすらぎを覚えた心で、おいおい黄昏の灯の見える洛中に近づく牛車に身を委ねていた。
2021/02/21
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