~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-01)
大化六年(西暦650年)二月、穴戸あなと (のちの長門・山口県)の国司が朝廷に白い雉を献上して来た。去る正月九日に穴戸の麻山おのやまというところでとらえたが、余りに珍しいので献上に及んだということであった。朝廷では、この白い雉の出現がいかなることを意味するか、この方面のことに明るい者たちにいてみることにした。半島の百済くだら国から質としてこの国に来ている王子豊璋ほうしょうは、
「調べてみましたところ、後漢の明帝みょうだいの永平十一年に、白い雉がところどころに居たという記述がございます」
と答えた。それ以外のことは言わなかった。これでは瑞祥ずいしょうであるか、その反対であるか判らなかったが、平生でも余分なことはいっさい口にしない豊璋らしい用心深さであった。豊璋は質としてすでにこの国で、十数年の歳月を送っていた。
代って下問を受けたの僧侶たちは相談した上で答えた。
「白い雉などというものは未だ見たことも聞いたこともございません。天下の罪人たちをゆるして、民の心をよろこばすべきでございましょう」
これも、満足できる答ではなかった。瑞祥なら罪人を赦してもよかったが、そうでなかったならかえってわざわいを招くもとになるであろうと思われた。
そこで、朝廷では十師じつし一人として、高僧の誉れ高い道登どうとうたずねた。道登は高句麗こうくりに留学し、帰国後元興寺がんごうじに住している朝廷の信任厚い僧侶である。
「昔、高句麗では伽藍がらんを造る場合、必ず瑞祥ある地を選んでおります。たとえば白い鹿が歩いているのを見て、そこに寺を造り、白鹿薗寺びゃくろくおんじと名づけております。また白いすずめが寺の耕作地に姿を見せますと、国人は吉祥だとしていります。また唐土にtyかわされた使者が、三つの足指を持ったからすを持ち帰ったことがあります。これをも瑞祥であるとしました。まして、このたびは白い雉の出現でございます。どうして瑞祥でないことがございましょう」
次に国博士くにのはかせの僧みんの意見を訊いた。大化の改新以後、高向史玄理たかむくのふびとげんりと並んで最高の智識人と目されている人物である。
「このたびのことはまことに吉祥であって、めったにあることではございません。王君が天下にあまねく恩沢を施す時、白い雉が現れるということを聞いて居ります。また、王者の祭祀さいしが正しく行われ、国に食も衣も満ち足りている時、白い雉が現れるとも聞きます。また王者の恵みが聖人の道にかなう時、現れるとも聞きます」
僧旻はそれでも足りなく、周の成王じょうおうの時の故事や、しんの武帝の時のそれを引いて、詳しく説明し、
「これは吉祥でございます。天下の罪人を許すべきでありましょう」
と奏した。そこで朝廷では直ちに白い雉を皇城の園に放し、白雉はくちと改元、大赦を行うことに決定、その発表を二月十五日に百官参列のもとに、正月元日の儀式同様に執り行うことにした。
2021/02/22
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