~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-02)
時代は皇極こうぎょく四年(645)の政変より五年っていた。中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりはかって、専横眼に余るものがある蘇我入鹿そがのいるか大極殿だいごくでんに斬ったのはついこの間のように思われるが、いつかその時から五年の歳月が去っている。
入鹿の父蝦夷えみしが自殺したのは、入鹿が誅された翌日のことであって、権勢ならびなかった蘇我一族は蝦夷の死に依って、ここに全く亡んだと言ってよかった。わずか二日にわたっての出来事であった。
政変後直ちに皇族中の長老の一人である軽皇子かるのみこが即位した。孝徳天皇である。皇極天皇政変第一の殊勲者である中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、中大兄は鎌足と謀って自らは皇太子に位に就き、軽皇子をしたのであった。
中大兄皇子が政治の改革に自由に腕を揮うために皇太子の地位を選んだことは、誰の眼にも明らかであった。そして新たに左大臣に阿倍臣倉梯麻呂あべのおみくらはしまろ、右大臣に蘇我倉山田臣石川麻呂そがのくらやまだおみいしかわまろが任命され、中臣鎌足は内臣うちつおみ、僧旻と高向史玄理とが国博士に収まった。ししてこの新政府の首脳部の手で、いわゆる大化の改新の新しい法令や制度は次々に打出されて行ったのである。
政変より今日までの五年間、時代は大きく揺れ動いていた。一つの新しい法令が出る度に、国中が大きく揺れた。
中央の有力な豪族たちも揺れれば、地方の族長、百姓たちも揺れた。中央の豪族の一族の中で国司に任命された者は、続々と地方にくだって行った。国司に任ぜられることが、自分たちにとって有利なことであるか、その反対であるのか、誰にも見当が付かなかった。地方に派せられた役人は役人で、耕地の面積を調査したり、戸籍を造ったりすることに忙しかった。このことがいかなることを意味し、いかなる結果をもつて現れるかは、当の役人にも、地方の族長たひにも、百姓たちにも見当が付かなかった。何か知らないが、時代は大きく変わろうとしており、そのために、自分たちが命じられたことをやらなければならぶ立場に立っていることだけが判った。いい時代が来ると考えている者もあれば、悪い時代が来ると考えている者もあった。
こうしたことは仏教の社会においても同様であった。僧侶を統制するために十師が任命され、寺院を統制するために寺司てらつかさ寺主てらしゅ法頭ほうずといったものが任命された。一体、どのような時代が来るであろうかということは、僧侶たちにも判らなかった。皇族、豪族たちはこれまで葬式にあたって墳丘や大石室を営んだが、そうした盛大な葬儀の風習は禁ぜられた。殉死や祓除も禁ぜられた。殉死や祓除はちえが禁ぜられるのはいいとして、葬儀の営み方にまで干渉するのは行き過ぎではないかというのが、一般の人たひの考え方であった。墓にも六つの等級ができた。
墓にも等級がつけられるくらいだから、冠位の制も十九階に改められた。役人たちはみな指定された布や色でできた新しい冠を用いなければならなかった。階級がたくさん出来て、身分の上下がいやにはっきりした。
こうして時代が急速に変わりつある中に、幾つかの大きい事件があった。一つは政変のあった大化元年の末に、都が飛鳥あすかから難波なにわに移った事である。政変で世の中がひっくり返っている最中に遷都が行われたのであるが、これに対する批判は至るところで、当然なこととして行われた。
何も、この際宮殿も営まれていない難波に引き移る必要はないのではないかという声が一般のものであった。中大兄皇子と鎌足は新しい政治は新しい都で行われねばならぬと考え、人心を一新するための強行措置であったが、この遷都に付随して起る混乱は相当大きいものであった。
それからこの遷都騒ぎの起こる前に、謀反むほんの企てがあるということで、政変後皇太子の地位を退いて、吉野にはいっていた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこが斬られた。中大兄皇子の異母兄に当たる方である。この事件はいろいろと取沙汰とりざたされた。古人大兄皇子が蘇我氏の残党にそそのかされたのだと言う者もあれば、いや新政府のやり方を快しとしない者たちにかつがれたのだと言う者もあった。また一部には、古人大兄皇子は何の罪もなくして葬り去られたのだという風説も流れた。
が、この古人大兄皇子の事件は、やがて次にやって来た難波への遷都騒ぎでどこかへ行ってしまった。古人大兄皇子の事件は、多くの役人たちにとっては何の関係もない遠いところの出来事であったが、遷都の方は直接自分たちに関係を持っていた。住み慣れた家を処分し、新しい都に引き移って行かなければならなかった。
2021/02/22
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