~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-03)
それから第三の大きな出来事は、新都難波において政府首脳部内に起った事件であった。難波に都を遷してから三年、ようやく難波が都としての体制を持ち始めた大化五年(649)に起った事件であった。この年の三月に阿倍左大臣倉梯麻呂が病没したが、それから間もなく、右大臣石川麻呂の身辺にただならぬ暗い影が漂い始めた。石川麻呂が中大兄皇子を暗殺しようと計画しているという密告者があったからである。密告者は石川麻呂の弟の蘇我日向そがのひむかであった。
石川麻呂は危害が身に及ぶことを感じると、難波を出て、長男の興志こごしが居る飛鳥の山田寺やまだでらに入った。そして翌日、討手の軍の到着する前に妻子八人の者と自刃して相果てた。
この事件は、一族の者二十三人が殺され、十五人が流刑に処せられて落着した。
かくして難波朝廷は左右大臣を相次いで失い、それに代って、巨勢臣德太こせのおみとこだが左大臣に、大伴連長德おおとものむらじながとこが右大臣に任命された。
石川麻呂の事件は、世間に大きい衝撃を与えた。倉梯麻呂の方は明らかに病死であったので問題はない筈だったが、続いて石川麻呂の事件が起こったので、その間に何らかの関連があるようにうわさする者もあった。また二人の死の間には関連はないが、倉梯麻呂の死に依って左大臣に空席ができたので、ついでのことに右大臣の方も空席にしてしまう方が、万事に付けて都合がよかったのだと、陰に籠った言い方をする者もあった。また、いやそうではない。倉梯麻呂、石川麻呂共に、新政府に対して反感を持っていた。その証拠には二人とも新冠を冠するのをいさぎよしとしないで、古冠をかぶっていたではないか。いつか新政府に対して弓を引こうという考えは二人とも共通のものであったのだ。そうしたことは誰にも判っていたが、中大兄皇子も鎌足もうっかり手をくだすことは出来なかったのである。それが倉梯麻呂の突然の死に依って、事情は一変し、たちまちにして石川麻呂は葬り去られるに到ったのである。こういう説をなす者もあった。
併し、実際のところ、この事件の真相は誰にも判らなかった。倉梯麻呂と石川麻呂の二人が朝廷において古冠に執して新冠を冠らなかったことは事実であった。大化改新に依って、左右大臣の地位は下がり、大幅にそれが持つ権限は削りとられていたので、そうしたことにおいて、二人が新政府のやり方に対して釈然としないところがあったとしても不思議ではなかった。
それからまた、中大兄皇子の妃蘇我造媛そがのみやつこひめは石川麻呂のむすめである。中大兄にとっては、石川麻呂は妃の父親である。
そうした点から見ると、中大兄はよほどのことがない限り、石川麻呂に兵を差し向けることはないだろうと思われた。
こうした考えに立つと、石川麻呂に叛心ほんしんがあったと見なければまらなかった。それは兎も角として、中大兄皇子もこの事件に依って傷つかないわけではなかった。妃蘇我造媛が父の死を悲しむあまり、二人の皇女と生まれた許りの皇子を残して他界するという事件が追いかけて起ったからである。
何と言っても、この石川麻呂の事件は嫌な事件であったが、嫌な事はこれ許りではなかった。それは事件が片付いてしまった後で、石川麻呂には叛心がなかったことが判明したということで、密告者蘇我日向が大宰府だざいふうつされてしまったことである。このように発表されると、誰もその事を信ずる以外仕方がなかったが、何か割り切れぬものがあとに残ったのも事実である。
いずれにしても、事件の結果だけから見ると、大化の改新後残存していた僅かの旧勢力は、これに依って全く新政府内から姿を消してしまったわけで、殊に石川麻呂の死と日向の左遷によって、蘇我氏はついに細い根までも摘み取られてしまった結果になったのである。
石川麻呂の事件があったあとになって、 ちまた にはもう一つの風説が流れた。それは政変以前に蘇我入鹿の手によって、聖徳太子の御子である 山背大兄王 やましろのおおえのみこ が葬られた事件があったが、それにも中大兄皇子が関係を持っているといったうふぁった噂であった。この事件は、これまで誰にも簡単に考えられていた。入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を太子にするために、当時最も有力な太子の候補者であった山背大兄王を除く必要があったのであり、そして入鹿はそれを実行に移し、 斑鳩 いかるが に山背大兄王を襲う暴挙に出たのである。
ところが、この事件の裏に中大兄皇子が居て、入鹿をそそのかさないまでも、それを未然に防ぐ措置はとらず、山背大兄王を見殺しにしてしまったのだという風評が、事件後数年経った今になって流れ出したのである。誰もこの噂をまともに受ける者は居なかったが、風評として、あちこちで ささや かれた。中大兄皇子は入鹿の手で山背大兄王を葬り、その事件から生れた蘇我一族への世の反感をうまく利用して、ついに蘇我氏を ちゅう して、政変を敢行したというのである。
どこかにうがち過ぎたところがあったが、聞く者に、一応そういうこともないものでもないという思いを いだ かせた。
真相は誰にも判らなかった。山背大兄王も、蘇我父子も、古人大兄皇子も、事件の渦中にあった者は、いずれも 非業 ひごう の死を遂げて、今は かった。
こうした噂が流れるようになったのは、石川麻呂の事件の直後からで、中大兄皇子に対する世人の見方が、急に従来とは異なったものになったことを示していた。中大兄と鎌足の新政に対して反感を持つ者が撒き散らした噂であったが、これが消えないで流れて行くだけの落ち着かないものを、時代は持っていたのである。
2021/02/22
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