~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-04)
朝廷に白い雉が献じられて来たのは、こうしたいろいろな風説や憶測が流れている時で、石川麻呂の事件より丁度一年経っていた。
二月十五日に、白い雉が現れた祝賀の儀式が厳かに行われた。春とはいえ、二、三日前から気温は落ちて、身を切るような冷たい風が都大路を吹き抜けている日であった。
この日定刻の午前十時より一刻ほど前に、皇城の門外には兵たちと左右大臣以下百官もものつかさが四列に並んでいた。左大臣の巨勢臣德太こせのおみとこだと右大臣大伴連長德おおとものむらじながとこの二人は。皇城内で天皇の側にはべって、白い雉の到着を迎えるものとばかり思っていたが、この日はそれが許されなかった。二人は一緒に皇城内に入ろうとして、門のところで屈強な門衛にとどめられた。しばらくお待ち戴きましょう。さすがに言葉は鄭重であったが、有無を言わさぬ強い響きが感じられた。二人とも左右大臣を拝してから幾許いくばくも経っていなかったので、あるいはこういう儀式にはこのようなことがあるのかも知れないと思った。
定刻になると、天皇の侍臣である粟田臣飯虫あわたのおみいいむし等に守られて白い雉を乗せた輿こしがやって来た。どこから来たかわからなかったが、長い隊列のずっと背後の方から、輿はかなりの時間をかけて進んで来た。巨勢大臣こせのおおおみは雉の輿を先導するものと計り思って、輿が自分の前にやって来た時、足を踏み出そうとしたが、
「あとにお付き下さるよう」
輿を守っている侍臣の一人に言われた。それで左右大臣の二人は輿に従って、輿のあとから紫門を入らねばならなかった。二人のあとには百官が続いた。百済くだらの王子の豊璋ほうしょう高句麗こうくりから来ている侍医毛治もうじ、新羅の侍学士等の姿も見えた。
白い雉の輿は紫門と御殿の間に置かれてある広い中庭の中央まで行くと、そこに停まった。そこで飯井等は一礼して輿から離れ、代って皇別氏族の三国公麻呂みくにのきみまろ猪名公高見いなのきみたかみ三輪君甕穂みわのきみみかほ紀臣きのおみ乎麻呂岐太おまろきだの四人が輿に近付いて、輿を御殿の前に運んだ。
さっきの侍臣がやって来ると、
「どうぞ」
孝徳と、巨勢大臣と大伴大臣に言った。二人の大臣に初めて仕事が割り当てられたのである。二人は輿の前に進み出て、輿の前の方に手を掛けた。輿の後部にはすでに三国公麻呂等が控えていた。
輿は玉座の前に運ばれた。孝徳天皇は中大兄皇子を招いて、一緒に輿の内部をのぞいた。天皇は白い雉を珍しそうに見ていたが、中大兄の眼の当て方は機械的で、やがてそこから離れると、玉座に向かってうやうやしく頭を下げ、それから自分の席にもどった。
巨勢大臣は、前から決められてあった自分の役割に移った。祝賀の言葉を述べるのである。こお祝賀の詞は、二日前に鎌足から文書として与えられたものであった。
── 公卿こうけい百官に代ってお祝いの言葉を申し上げます。主上にはこよらかな德をもつて天下をしろしめされ、その瑞祥ずいしょうとして、このほど白い雉が西の方に現れました。おめでたい限りでございます。主上には千代ちよ万代よろずよまで大八嶋おおやしまをお治め戴いて、われら公卿百官、もろもろの百姓たちは、ただひとえに忠誠を尽くして御恩德に報ゆることを念願する計りであります。
巨勢大臣は祝詞を奏上し終わると、玉座に再拝して、自分の席に戻った。
続いて詔勅がくだった。── 高徳の天子が世に出ると白い雉が現れると聞いている。周の成王じょうおうの世と漢の明帝みょうだいの時、白い雉は現れた。自分にはその資格がないのに、白い雉が現れたのは、ひとえに自分をたすけてくれる公卿まえつきみおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ等の忠誠によるものであると信ずる。この吉祥を受け、一層神祇じんぎうやまい、身をきよくして、天下の繁栄をこいねがうものである。
更にみことのりがあって、白い雉の出現を祝って、大赦が行われ、年号は白雉はくちと改められることになった。そして、白い雉を献じて来た穴戸あなと の国司の草壁連醜経くさかべのむらじしこぶ褒賞ほうしょうとして位が上げられ、ろくも加えられた。
儀式は比較的短い時間で終わった。午後、公卿百官のために皇居内で祝賀の宴が開かれた。一人一人、中庭の一隅いちぐうに置かれた雉の輿の所に行って、それを覗き、頭を下げ、宴席に戻った。朝からはげしかった風は、この時刻になってもいっこう衰えなかったので、宴席に待っている者は申し合わせたように鼻の頭を赤くし、くちびるを紫色にし、絶えず身を細かく震わせていた。
2021/02/24
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