~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-05)
中一日置いて、白い雉は中庭に放され、中庭に面している部屋でそれを観賞するための集まりが開かれた。この日は高官数人をのぞいては、あとは皇族計りであった。
天皇は風邪気味で出席できず、中大兄皇子が一番の上座に坐っていた。
中大兄は中庭を歩いている白い雉に眼をっていた。歩くだけで飛べなくなっている雉は、中大兄にはさして美しくは見えなかった。雉は時折、脚を停め、胸をらすようにして、あたりを見廻している。そうしたところは落ち着きがなく、絶えず何ものかを警戒し、おどどしている感じであった。
かつって山背大兄王もあのような格好かっこうで歩いていたと思った。山背大兄王だけでなく、古人大兄皇子もあのようにして歩いていたと思った。が、中大兄は自分が山背大兄と古人大兄のことを考えていたことに気付くと、急いで、そこから思いを他に移そうとした。二人のことを考えることは嫌だった。
その時幸徳妃間人皇后ほしひとのきさきが侍女を連れて廊下伝いに姿を現した。それに気付くと、一座にはかすかな波紋が伝わった。庭先に降りて居た者はそこで頭を下げ、縁側に経っていた者は、そこで身をかがめた。
「ほんとに白い雉ね」
間人皇后は言った。細い澄んだ声である。皇后は中大兄の妹で、二十五歳の中大兄と四つ違いであるから、二十一歳である。間人皇后はすぐ兄皇子の居ることに気づいた風で、廊下から座敷の中に足を運んで来た。
「わたしには今日のお招きがありませんでした」
間人皇后は低い声で言った。第三者には中大兄に言ったようには見えなかった。華奢きゃしゃな身体を持った美しい皇后はいつもこのような言い方をした。決して中大兄の方へは顔を向けず、あらぬ方に視線を投げていたので、第三者には、皇后がひとりごとでも言っているように見えた。
「余り美しい雉でもない」
「国の瑞祥と言われる珍しい雉でございましょう」
「そう、瑞祥かも知れない」
「あなたは何もお信じになりませんのね」
それから、
「御自分の力意外」
「自分の力を信じなくて、何ができる?」
間人皇后はやがて兄である中大兄の方へは一瞥いちべつもくれないで静かに席を立った。何人かの侍女たちが、それぞれ立ち上がって、うずでも巻くように動き出し、器用に皇后のうしろにつくと、そのまま一団は廊下を去って行った。間人皇后の兄思いは有名であった。父舒明じょめい天皇をうしなったのは十二歳で、それ以来中大兄皇子を父代りとして慕っていて、何事も中大兄でなければ収まらなかった。大化元年に十六歳にして、当時五十歳の孝徳天皇の妃になったが、これも兄皇子がそれを望むならということで皇女の決意するところとなったと巷間こうかんに伝えられていた。
鎌足は、縁近いところに坐って、白い雉の動きをゆっくりと眼で追っていた。瑞祥、瑞祥、── 瑞祥が歩き廻っていると思った。中大兄皇子ように、その雉の動きを、落ち着かないものにも、不安気なものにも感じていなかった。鎌足には白い雉は充分美しく見えた。
2021/02/24
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