~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (1-06)
白い雉の出現を祝う儀式を企画したのは鎌足であった。そして、その儀式は、鎌足が望むように厳かに行われた。一部に厳かすぎるというような声もあったが、鎌足の考えでは、いかに厳かでも厳かすぎるということはなかった。新しい時代は始まっているが、それはもう永遠に続くのだという考えを豪族たちにも民たちにも植え付けねばならなかった。どのようにあがいても、もう政変以前の古い時代には戻らないのだということを、老いにも若きにも、男にも女にも知らしめなければならなかった。
大赦が行われたことも、年号が改められたことも、ある程度の役割は果したと思う。また左右大臣を紫門の外に立たせたことも、雉の輿を運ばせたこともよかったと思う。中央の豪族たちや地方の民族たちが政治にくちばしを入れたり、権力を振り廻したり、私庫を肥やしたりした時代はすでに終わってしまったのである。
鎌足は白い雉の動きを見守りながら、自分が何年かぶりで落ち着いて坐っているのを感じた。政変以後何年かあわただしく過ごして来たが、今日初めてこうして休息に似た時間を持つことが出来た気持だった。まだ時代は決して安定しているとは言えず、新しく為さねばならぬことはたくさんあったが、それにしても白い雉の出現にって、ひとつの区切りが出来、いま自分はここにこうして坐っているのである。この数年間のうちに、すべての鬱陶うっとうしいものは取り払われている。しここに古人大兄皇子の姿があったとしたら、自分はこのように落ち着いて坐っていることは出来にであろう。何となく新政に邪魔だった倉梯麻呂くらはしまろも居なければ、石川麻呂も居ないのである。
鎌足は中大兄皇子の方へ顔を向けた。自分がこの地上で、ただ一人の聡明そうめいな人として選んだ若い皇子の身辺には、今やいかなる暗い影も見られない。覗くべきものはすべて除き、取り払うべきものはすべて取り払ってしまったのである。中大兄皇子は、新しいまついごとき、これまでになかった国らしい国を造るために、この世に生れて来られたのである。そして、それをおたすけするために、自分は皇子より十年ほど早く、この世に生を受けたのである。
鎌足はふと、有間皇子ありまのみこ大海人皇子おおあまのみこが連れ立って、白い雉の方に歩いて行くのを見た。有間皇子は現天皇と倉梯麻呂のむすめ小足媛おたらしひめとの間に生れた皇子で、中大兄皇子とは従兄弟いとこの関係にあるが、十一歳の春を迎えたばかりである。まだ少年期へ一歩踏み込んだばかりで、その顔の表情にも、その体にもおさなさはけていない。しかし、悧発りはつさにかけては、同じ年頃としごろの皇族の中では群を抜いているといううわさが立っている。
大海人皇子は中大兄の弟で、十九歳であるが、体格は堂々として、もうどこから見ても、現政府首脳の一人としての貫禄かんろくを身に付けている。中大兄皇子の一番の協力者であり、相談相手である。鎌足は今までは別にして、これからは、若し自分の身に変事があったとしても、大海人皇子が居る限り、中大兄が執政において、道を大きく踏み違えるようなことはないだろうと思った。中大兄皇子も二言目には弟の皇子の名を口にして事をはかっているが、大海人皇子の兄の皇子に対する尊敬というか、傾倒と言うか、そうしたものも並みひと通りのものではない。
鎌足は大海人皇子と有馬皇子の二人が白い雉を追うように、雉のあとについて歩いているのを見ていたが、二人の皇子を一緒に並べて見た時、それまでは考えたこともなかった冷んやりした思いを持った。
── 雉だからいいが、ほかのものだったら困る。
そう鎌足は思った。将来、中大兄皇子が現天皇のあとをけて即位するであろうことは、規定の事実と言っていいが、そういう日を迎えた時、皇太子の席をめぐっての、大海人皇子と有間皇子の関係はなかなか厄介やっかいな問題であろうと思われた。併し、問題はひとり大海人皇子の場合ばかりではない。現在まだ十一歳であるからいいようなものの、十年先を考えると、有間皇子が中大兄皇子と並んで白い雉を追ったとしても、さして不思議ではないではないか。
併し、そうした鎌足の遠い将来に対する取り越し苦労をよそに、青年と少年の、八歳違いの二人の従兄弟皇子は、鎌足の思いも寄らぬ会話を交わしていた。
「噂に聞く額田ぬかたとはあの女か」
「そう」
「歌がうまいんだな」
「そう」
「あれだけ美しい女は見たことがない。間人皇后も美しいが、さっきあの女があとに随って来るのを見ると、后の美しさなど問題ではない」
「手もきれいだ」
「今ごろからませたことを言ってはいかん」
大海人皇子が足で雉の尾を踏んだので、雉はけたたましい羽音を立てた。
2021/02/25
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