~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (2-01)
白いきじが献じられた年の春に半島の新羅しらぎの使者がやって来て貢物みつぎものを献じた。半島からは、高句麗こうくり百済くだらも朝貢して来ていたが、この年は両国からの使節の派遣はなかった。
新宮の造営は着々進んでいた。これまでの皇居は、往古半島との交通しげかったころの官庁の建物を改造した仮のもので、遷都せんとと同時に新たに王宮造営の工事ははじめられたのではあるが、それが本格的に進捗しんちょくし始めたのは一年ほど前からである。新宮造営のために古い丘墓がよそに移されたり、壊されたりしたことが多かったので、この年、朝廷ではそうした墓の持ち主たちに被害の程度に応じて品物を賜った。
白雉はくち二年の春に、前年から取り掛かっていた丈六じょうろく刺繍ししゅうの仏が出来上がり、盛大な法要が行われた。また六月には百済、新羅から貢物の使者がやって来た。が、新羅の朝貢使については問題があった。筑紫つくしに泊った新羅の使節たちはいずれも唐の国の服を着ていた。朝廷ではこちらの許可もなしに勝手に服装を変えたことを怒って、彼らを追い返した。この時巨勢大臣こせのおおおみは奏して、
「新羅を今のうちに懲らしめなければ、あとで後悔する時がまいりましょう。黙っていると、唐の威令に服して、わが国を軽んじてしまいます。新羅を懲らしめるのはわけのないことであります。難波津なにわづから筑紫の海まで、要処要処に軍船を配した上で、新羅を召して、その罪をお問いになるのがよろしゅうございましょう」
と言った。唐へなびこうとしている新羅を放置しておくことは感心しないことではあったが、と言って、巨勢大臣の言葉を即座に採用するわけには行かなかった。おびただしい数の軍船を造らねばならなかったし、その費用を捻出ねんしゅつすることも難しかった。無理をすれば軍備を調えられないこともないかも知れなかったが、そのために派生する国内の問題の方が怖かった。新政を布いてからまだ数年しか経っていなかった。
そのことに巨勢大臣も無知ではなかったが、こうしたことは廟堂びょうどういて言わないより言った方がいいことを、彼は知っていたのである。誰が聞いても愉快なことではなかった。中大兄皇子なかのおおえのみこ鎌足かまたりも黙って聞き流した。とがめだてするには当たらない発言で、ただ実情に即するには、十年か十五年早いだけのことであった。
何と言っても、この年の大きな事件は、大晦日おおみそかになって、半造りの新宮の庭に初めて灯火みあかしをともして地鎮の式を営んだことである。その日は新宮と隣り合わせたところにある味経宮あじふのみやに二千百余の僧尼そうにを集めて一切経いっさいきょうを読ませ、夜は新宮の庭に二千七百余の灯火をともして、土側経どくそくきょう安宅神呪経あんたくじんじゅきょうを読ませた。
王宮の建物は落成にはまだ遠く、この夜、天皇は大郡おおごおりの仮御殿からここにみゆきし、翌日、元日の儀式を終わると、すぐ再び車駕しゃがは大郡宮にかえったが、新政になってからの最も派手な行事であった。新宮は難波長柄豊碕宮なにわながらのとよさきのみやと名付けられた。
当夜、行幸を迎えるに先立って、中大兄皇子は左右大臣、鎌足等を引き連れ、夥しい数の灯火のともされている新宮の庭を歩いた。新宮は高台の上に築かれてあり、難波の街々を一望のもとに見降ろすことが出来た。街は暗かったが、街の向こうに拡がっている海は月光に照らされて明るかった。海は片側から街々を抱くようにして、その一端は新宮の台地のすそにまで迫っていた。浪の音は聞こえなかったが、風の加減では、それは新宮の台地まで届くものと思われた。今は浪の音でなく、読経どきょうの声が遠くなったり、近くなったりして聞こえていいる。
新宮の台地から街々は暗く見えていたが、街々は眠っているわけではなかった。
街々の男女は申し合わせたようにして家を出て、辻々つじつじに集まったり、路地路地を走ったりしていた。老若男女みな異様な昂奮こうふんに包まれ、童子たちは童子たちで、すっかり眠ることを忘れていた。誰も彼もこのよに美しいものを見たことはなかった。新宮の台地は無数の火で包まれ、そこだけが夜空をがしている。しかし、男女はどこでも走り廻れるわけではなかった。人の子一人居ない道が台地向かって折れ曲がって続いており、所々に兵たちが立っていた。車駕が通過して行く道である。そこだけに遠い浪の音が聞こえていた。
2021/02/26
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