~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (2-03)
大海人皇子には、そもそも額田という特殊な女性の精神の構造が見当付かなかった。
自分の気持を歌の形で表現するのさえ容易でないのに、他人の心に入り込んで、他人になり代わって歌を作るというにおいては、何か自分などの手に負えぬもののあるのが感じられた。しかも天皇になり代って歌を詠む時は、単に人間としての天皇の心の内部に入る許りでなく、いつも神の声を聞き、神の言葉を天皇の言葉として表現するのだと言われている。そう言う点から考えれば、神の声を聞くことが出来る特殊な霊力を持っている女に他ならぬ。ってみれば神と人間の仲介者で。天皇の代弁者でもあるのである。額田女王はどうもそういう特殊な女らしいのである。
大海人皇子も、巫女みことか御言霊持もこともちとか言われている女に対しては、幼い時から特別な向かい方をしていた。得体の知れぬ不気味な存在ではあり、なるべく触らぬ方が無難であるという思いを払拭ふっしょく出来なかった。併し、厄介やっかいなことに、その触らぬ方が安全だと思っていた女の一人に心をかれてしまったのである。
一度、鎌足に、神事に仕える女官というものはいかなる女であるか、いたことがあった。
「女官がどうかいたしましたか」
鎌足はきらりと眼を光らせて、雲散臭うんさくさそうに訊き返して来た。こうした質問をするには最も避くべき人物であったが、つい口を滑らせてしまったのである。
「どうもしない。ただ訊いてみただけである」
「お訊きになるからには、、お訊きになる必要があってのことでございましょう」
「格別そう必要あってのことではない」
「必要おありなら調べてお答えいたしますが、格別必要おありにならぬなら、この質問はお取り下げにしていただきましょう。鎌足も存じませぬ。が、神事に仕える以上、神のお声が聞こえる女でありましょうし、当然清浄な体と心を持った女でございましょう。そうでなくなったら、たちどころに霊力はせること必定ひうじょう
「霊力が消えたら、どうなる?」
「普通の女でございましょう」
普通の女になるなら、普通の女にしてしまえばいい。そう大海人は思ったが、併し、普通の女にしてしまうまでは普通の女ではなかった。依然として、霊力をそなえた特殊な女であった。どうして声を掛けたらいいか、どうして話し合いの機会をつかんだらいいか、大海人皇子には見当が付かなかった。
鎌足以外に巨勢大臣と、こんどは直接に額田女王について話してみたことがあった。
「宮廷第一の美女は誰か」
大海人皇子が訊くと、
「宮廷第一の美女が誰か存じませぬが、新羅にはすごい美女がたくさん居ります」
巨勢大臣は言った。
「新羅を征しました暁は、美女がどっと流れ込んで参ります。何と申しましても天下の美女は新羅に集まっております。早く新羅を討ちませぬと、その美女が一人残らず唐へ連れ去られてしまいましょう」
それに構わず、
「額田という女官が美貌びぼううわさ高いと聞いているが」
と、大海人皇子が言うと、
「あれは新羅風の美女でございます。が、遺憾いかんなことに巫女でございます。あれは美女ではございますが、美女の中にはいれません」
「どうして入れぬ?」
「いや、あれは特別な女でございます。うっかり女だなどと思ったら大変でございます。思っただけで神罰はくだりましょう」
併し、もぅ随分長く思っていると、大海人皇子は思った。にもかかわらず、一向に神罰は下っていない。
このような二年を過ごした挙句あげく、漸くにして今宵こよい、大海人皇子にとって、一つの機会がやって来たのであった。味経宮あじふのみやを出て、どこかの宿へ帰ろうとしている額田女王を大海人皇子は捉えようとしていた。
2021/02/26
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