~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (2-04)
大海人皇子は暗い中に立ったまま、そこから動かなかった。灯火の光の中に出ると相手にこちらの動静を知られてしまうので、それを避けたのである。そしていったん姿を闇の中に消してしまった額田女王が、次にどこに姿を現すか、その時を待っていた。
併し、相手はいっこうに姿を現さなかった。こちらの心を読み取ってでもしまったように、向こうは向こうで暗闇の中に姿を匿したままでいる。こういうところが神事に仕える女の特殊なところであろうか。
大海人皇子は、さっきから何回も繰り返した失敗を、もう繰り返す気持はなかった。
たとえ相手が永遠に姿を現さなくても、自分から灯火の光の中に入って行く気はなかった。大海人皇子は長い間耐えていた。灯火が次々に消え、闇に領域が次第に拡がって行くにつれ、星の冷たい輝きがはっきりして来る。黒い夜空に降るように星がちばめられている。もう新宮の台地を突切って行く人たちはなかった。味経宮から引き揚げるべき者はことごく引き揚げてしまい、もはやどこからも人の跫音や話し声は聞こえて来なかった。
大海人皇子は、しかしたら、いまこの台地の闇の中に居るのは自分一人かも知れないと思った。深田女王が既にこの台地から脱け出してしまっているとしても、少しも不思議ではなかった。むしろその方が自然な推測であるかも知れなかった。こんな寒い暗い台地に、女がいつまでもひとりで徘徊はいかいしていると考える方が、よほど奇妙だった。
併し、そういう思いに揺すぶられながらも、大海人皇子はなおもそこに立っていた。
風が出始めたのか、台地の斜面を埋めている松の林が鳴っている。それに耳を傾けていると、その松の林の鳴る音に混じって、さっきまで聞こえなかった浪の音も聞こえている。
と、ふいに、大海人皇子は身を固くした。近くに沓音くつおとを聞いたように思ったからである。確かに沓音に違いなかった。ひたひたと地面をたたいている。その沓音は更に近くなって来たが、ふいに停まった。
大海人皇子は息をひそめていた。相手も息をひそめて、そこに立っている気配である。急に闇は色彩を持ったなまめかいいものに感じられた。大海人皇子は右足を一歩踏み出して、両手で宙をき分けた。長い間慕い求めていたものを、正確に自分の胸の中に収めてしまいたかった。闇の中に居ることが、大海人皇子を大胆にしていた。が、手応てごたえはなかった。更に一歩踏み出して、思い切って、
「額田!」
と、低い声で呼んでみた。初めて口に出して言った相手の名であった。この場合もなんの応答もなかった。
「額田!]
もう一度口に出してから、大海人皇子はかすかな不安を覚えた。
大海人皇子は一歩あとに退いた。ふいに殺気のようなものを感じた。鋭くはげしいものが闇の底を流れている。皇子はさらに一歩退いて、佩刀はいとうに手を掛け、前方の闇をうかがった。もうこの時は、大海人皇子の心からは、額田女王のkとは跡形もなく消えていた。
いま自分の前に居るものは、そのようなものであろう筈はなかった。それとは似ても似つかぬものである。不気味な緊張があたりの闇を支配している。
来い! 大海人皇子は全身を神経の固まりにして、自分から身をひるがえす瞬間を待っていた。闇の厚い層の中に毛ほどの動きでも感じられたら、その瞬間、皇子の片膝かたひざは地面に、片手は刀を握ったまま水平に限りなく大きく闇をひらめき裂く筈であった。闇は裂かれ、まくられ、粉々になってあたりに散乱する。倒れているのは相手であるか、でなかったら自分である。
どれだけの時間が流れたか。ふいに緊張は破れ、殺気は消え、闇は大きく動いた。沓音が聞こえた。相手はくるりと背でも見せた感じで、地面を踏む沓の音を立てながら、自分から遠ざかって行こうとしている。
大海人皇子は異常な緊張から身を自由にし、大きく息を吐いた。一体何者であろうか。たとえ短い時間であるにせよ、相手は自分に対して害心を持ったのである。それは疑うことの出来ぬ事実であった。大海人皇子は沓尾とを聞いていた。それはひたひたと地面を叩くように、しのびやかに、併し、もうこちらに知られても構わぬという大胆さで遠ざかって行きつつあった。
皇子はあとを追わなかった。なぜ相手はこちらに害心を持ったのであろうか。併し、自分が何者であるか知られる筈はないと思った。ただ二回、額田! と短い言葉を口から出しただけである。それにまた、こちらが何人であるかを知られたに白しろ、それならばなおのこと、敵意を持たれるということはせぬことと言わねばならなかった。
大海人皇子が相手を追わなかったのは、地鎮の祭儀が修せられた夜、女を追い求めて、深夜新宮の台地を徘徊するということは、誰に知られても感心すべき事ではなかったからである。わざわざそうした自分を相手に披露ひろうする必要もなかったし、また理由のわからぬ闘争のために、身を危険にさらす愚をあえてする気にもならなかった。
2021/02/27
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