~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (2-05)
大海人皇子はなおしばらく闇の中に立っていた。闇はさっきより一層深々としたものに感じられた。灯火は一つ残らず消えてしまい、風の音と浪の音が、新しく台地を洗い始めている。大海人皇子は味経宮あじふのみやに引き返すために歩き出した。皇子もまた沓音を立てて歩いた。今となっては沓音を立てるのをはばかる必要はなかった。追い求めて来たものは見失い、不気味な闘争者とは別れてしまったのである。
台地のしまで歩くのに骨折ったが、そこに辿たどり着くと、斜面の雑木の間から味経宮の館々やかたやかたの灯が見えた。館の灯ばかりではなかった。赤々と燃え上がっている火も見えている。不寝番の兵たちがたむろしている焚火たきびなのであろう。
大海人皇子は遠い明りを頼りに、斜面の道を降り始めた。額田女王に手を触れるとたちどころに神罰がくだると巨勢大臣は言ったが、まさにその通りだと思った。手を触れるどころか、付け廻しただけで、たちまちにして殺気は自分を押し包んでしまったのである。
それにしても、と大海人皇子は思った。闇の中で自分を窺った相手は誰であろうか。
何のためにあのような態度をとったのか。大海人と知ってのことであったか、知らないでのことか。自分と知って、あのような敵意を持つ者があろうとは思われなかったので、自分と知らないでしたこと、と考えねばならなかった。闇の中で当然声を掛けられたので、咄嗟とっさにあのような態度をとったのかも知れなかったが、それにしても新宮の台地においての事件であった。他の日ならいざ知らず、今夜の祭儀に列する者以外、誰一人この地域には入っていない筈であった。台地をめぐって、要処要処には兵が配され、怪しいものはねずみ 一匹入れぬことになっている。
大海人皇子は不意に立ち停まって。かたわらの雑木の樹幹に手を置いた。ざらざらした洗い手触りだった。いやな想像だった。若しかしたら、今夜新宮の台地で、額田女王を追っていた者は、自分だけではなかったかも知れないと思った。あの自分を襲おうとした者も、闇の中で額田女王を捉えようとしていたかも知れないではないか。
そうなると、額田! と声を掛けたことが、一つの意味を持って来る。自分が額田! 似方!
と声を掛けたことにって、相手は自分に敵を感じたかもしれないのだ。一体、相手は誰であるか。額田女王に思いを掛けている男は誰であるか。すると、次々に顔が浮かんできた。一人や二人ではなかった。若い男という男の顔は、尽く額田女王の求愛者らしい表情を持って思い出されて来た。若い男許りではなかった、中年の男から老人まで、思い出すどの顔も、油断ならぬ魚色家に見えた。鎌足だって、巨勢大臣だって怪しいものだと思った。
大海人皇子はまた歩き出した。ひどく足場が悪くなったいる。さっき台地へ上がる時歩いた道は、もっと広かった筈である。
よし、それならば、一刻も早く、是が非でも、額田女王を自分の腕の中に収めてしまわねばならぬ。まごまごしていると、取り返しのつかにことになってしまうだろう。
── 併し、大海人皇子はまた足を停めた。今度もまた荒い樹幹のはだに手を置いた。相手が自分と同じように額田女王を追い求めていたとするのは 、一つの仮定に過ぎない。そういうことは有るかも知れないが、無いかも知れないのである。相手がこちらが何人であるかを知って、あの時殺意をいだいたとすれば、それは容易ならぬことであった。
自分の生命があるよりもない方をよしとする人間が、この世に居るということになる。
大海人皇子がこのようなことに思いを廻らしたのは、この夜が初めてであった。あの時、自分がすきを見せないで、反対に相手を倒そうとしたので、相手は、かなわないと知って身を引いて行ったのかも知らぬ。若し、こちらが相手の殺意を見てとらなかったら、相手は襲いかかって来ていたかも知れないのである。それならば相手は誰か。
大海人皇子はあたりを見廻すようにした。今まで、このことに気付かなかった方がどうかしているといった気持だった。自分の生命が有るより無い方が有利であるとする立場に立つ人間の顔が次々に浮かんで来た。五人や六人ではなかった。際限なく、次々に立ち現れて来た。
大海人皇子はもうすぐ二十一歳になろうとする大月隠おおつごもりの夜、初めて見ると言える見方で、自分の周囲を見たのであった。
2021/03/07
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