~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (2-06)
額田女王は台地のはずれの闇の中に立っていた。体は氷のように冷え込んでいたが、ほとどそれを感じていなかった。新しい皇城の地鎮の祭儀の行われた夜のおごそかさを、高い調べでうたいたかった。今宵、この地に神は宿り給うたのである。永遠にこの地を守るために、またやがて造築される新しい宮殿を守るために、もろもろの神々は天からくだり、この地に宿り給うたのである。額田はそれを神の心で詠いたかった。神の心で詠うためには、神の声を聞かねばならなかった。額田女王は神の心を聞くために、この台地に上がって来たのである。
味経宮でおびただしい数の僧尼そうにが経文をし、その声が賑々にぎにぎしく聞こえている最中、これとは全く別に、天の一角からもろもろの神々はここにくだり給うたのである。味経宮で法要が修せられ、碑飛び地が人々がそこに集まっている時、灯火みあかしだけがともり、人の子一人居ないこの台地に、神々は一体また一体というように、次々とくだり給うたのである。
額田女王は法要の行われている最中から、この台地に上がりたかったが、法要が終わるまでそこから離れることは出来なかった。法要がすむと、額田女王はただ一人でこの台地の上へ上がって来たのである。額田女王はいつもなら、自分がその気になれば神の声を聞くことが出来た。そしてそれが自然に歌詞となって、口をつきてよどみなく出て来るのであったが、今宵はそうは行かなかった。神の声が聞けなかった。鬱陶うつとうしい邪魔ものがあった。
額田女王は味経宮を脱け出してから、間もなく二人の男に追われていることに気付いていた。相手が一人ならどのようにでもまいてしまうことも出来たが、あいにく二人だった。一人をまくと、もう一人が現れた。その一人をまくと、他の一人が現れた。二人ともひどく執拗しつようだった。相手がいかなる身分の男性か、額田女王には判らなかった。思いきって、灯火の明りの中に身をさらしてもみたが、そうしている時は、相手は決して近寄って来なかった。二人とも、申し合わせたように、闇の中で自分をとらえようとしていた。
相手の二人がいかなる身分か判らないとは言え、額田女王には、そのうちの一人だけは大体見当が付いていた。大海人皇子ではないかと思った。と言うのは、新宮の地鎮の祭儀の夜、会って話したいことがあるので、その心づもりをしているようにという大海人皇子からの伝言が、人を介して伝えられていたからである。
こればかりでなく、この一年間、大海人皇子からははげしい求愛を受けている。人を介して申し出を受けたことは一回や二回ではない。それに対して、額田女王は何の応答も返していなかった。幼い時から神の声を聞く特殊な女として育てられて来ている自分が、どうして人間の声に耳を傾けていいであろうか。神の声を聞いたり、人間の声を聞いたり、そんな器用な使い分けは出来ないのである。
神の声を聞くか、人間の声を聞くか、そのいずれかを選ぶとすれば、言うまでもなく神の声を聞く方をるだろう。一度神の声を聞いてしまった者には、人間の声などさして興味の関心も持てないのである。自分が作る歌は、すべて神の声である。この国のよろこびや悲しみ、この国に生きる人たちの悦びや悲しみ、それを神の御心に入って詠い上げるのである。いつも、それは滔々とうとうたる大河の流れの調べを持っていなければならなかった。この国や国人の運命に通じているからである。
額田女王は二人の求愛者をまいてしまおうと、台地の端しの闇の中で、神の声を聞く作業に入っていた。大海人皇子が想像も出来ぬ想念が、ようやくいま若い美しい巫女みこを捉えようとしていた。
2021/03/08
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