~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (3-01)
白雉 はくち 三年正月から昼夜兼行で新宮の造営は続けられた。それまで 大郡宮 おおごおりのみや にあった朝廷が、漸く形だけを為した新宮に移ったのが三月九日であった。何も急いで半造りの宮に移らなくてもと うわさ されたが、それはそれだけの理由あってのことと思われた。天皇の仏教への 帰依 きえ は大変なもので、大郡の御殿から新宮への移転も、一部の 僧侶 そうりょ の勘案あってのことと思われた。
翌四月十五日にはまだお 槌音 つちおと が高く響いている新宮に、法師 恵隠 えおん を招いて 無量寿経 むりょうじゅきょう を講じさせ、法師 恵資 えし 問者 もんじゃ の役を勤め、一千の僧侶が聴講した。この論議は二十日まで五日間にわたって、夜となく昼となく続けられた。論議の終わる ころ から雨が降り始め、長く日照りが続いていた時なので、この降雨は誰にも よろこ ばれたが、どういうものか、いつまで っても降り まず、家を壊し、田畑を押し流すまでの長雨とない、人や牛馬の おぼ れ死ぬ者が多かった。 巷間 こうかん では、新宮について、また新宮への移転について、いろいろと 取沙汰 とりざた された。
新宮の造営が全く成ったのは九月であった。その豪壮華麗さは見る者の眼を奪った。
縦横に石畳の道は走り、その石畳の道を はさ んで殿舎は立ち並び、廻廊は めぐ らされ、石の階段は配され、所々に 勾欄 こうらん を持った大きな石の広場が置かれてあった。
新宮の槌音が歇んだ頃から、新しく街造りが始められた。新宮を取り巻くようにして、次々に官吏の邸宅が建てられた。そころどころに広い空地が残されていたが、そこには後日、寺院が建てられるということであった。
新宮が台地の上に大きな姿を見せ始めた頃から、丘の周辺の 巷々 ちまたちまた も日一日 にぎ やかになりつつあった。港には異国船をも混じえた おびただ しい数の船がひしめに合い、波止場付近には倉庫が立ち並び、民家が軒を つら ね、雑多な職業の男女が朝から晩までそこら一帯の地を動き廻っていた。
こうした新しい都が出来上がる一方、その間に新しい政令も次々に かれていた。一番目立ったことは戸籍が造られたことであった。一戸一戸ごとに法律上の責任者として家長が置かれ、五戸集まると、そこには更に長が置かれた。そして五十戸をもつさととなし、里には一人の長が定められて、いっさいを取り仕切った。耕作地の調査も国の隅々すみずみまで行われた。 大化の改新直後、班田はんでんの制は布かれていたが、更にその正確と徹底が期され、およそ田は広さ三十歩を段とし、十段を町とした。そして段ごとに稲一束ひとつか半、町ごとに十五束の租が徴せられることになった。
新宮の造営成った年の十二月の大月隠おおつごもりの夜は、前年と同じように天下の僧尼は新しい内裏だいりに集まって法要を営み、夥しい数の灯火みあかしがともされた。巷々の男女には、丘上の灯火の祭典は前年の比ではなく美しく荘厳に見えた。男女は丘の上の灯火の最後の一つが消えるまで、路上に出て、それに見惚みほれ、讃歎さんたんし、吐息をつき、自分たちの暮らし向きの話や、異国のみつぎの使者の噂をし、それからいつか身を切るような寒風が噴き出していることに気付くと、それぞれの粗末な家に入り、いかなることをもたらすかわからぬ新しい年を迎えるために眠った。
こうした白雉三年であったが、この一年間に、額田女王ぬかたのおおきみにはその生涯しょうがいの運命を大きく曲がらせる一つの事件があった。
車駕しゃがが、半造りの新宮にみゆきすることに決まった二月のことであった。額田女王は帝に先立って新宮に移り、その当座は次々に営まれる祭事に忙しく日を送っていたが、それが一段落ついた頃、大海人皇子おおあまのみこから招きを受けた。使者に立って来たのは、大海人の側近に侍している中年の女官であった。
四天王寺してんのうじ境内けいだいの梅林がみごとな花をつけましたので、皇子さまはそれをお見せしたいと申しておられます。この月の最後の日、夕刻五時より観梅の宴を張ります。御都合がよろしかったらお越し下さるようにとのことでございます」
表情というものを全く失った能面のような顔を持っている女は言った。四天王寺の境内と言っても、四天王寺の伽藍がらんはまだ出来上がっていず、工人たちは新宮の造営の方に廻されていて、伽藍は工半ばで打ちてられてある筈であった。伽藍も出来ていないくらいであるから、庭園が形を成していようとは思われなかった。それにしても観梅の宴を張ろうというのであるから、その近くに自然の梅林でもあるのであろうかと思った。

2021/03/09

Next