~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (3-03)
併し、鏡女王が妹の額田女王を訪ねて来たのは、久しぶりで肉親の妹に会うためばかりではなかった。
「わらしがこんど都に上って来ましたのは、大変申し上げにくいことですが、──」
鏡女王はここで言葉を切ったが、思いきってすぐ続けた。
「中大兄皇子さまが、妹のあなたをおに招きたいので、姉のわたしを都におびにならないのだという風説が、郷里に居るわたしの耳にまで入りました」
額田女王は自分の耳を疑った。
「もう一度、いまおっしゃったことを、お聞かせ戴きとうございます」
すると、
「このようなつらいことを、二度もお口におさせになるのですか」
そうえんずるように言ってから、
「人の口というものは、どこまでが真実か、当てにならぬものでございます。でも、そのようなことを、わたしに伝えた人は一人や二人ではありませぬ。── だから、どうして下さいとは申しませぬ。誰にも、どうしたらいいか判らぬことがございます。ただ、実際にそのようなことになりましたら、何というかなしいことでございましょう」
額田女王は姉の言葉を聞きながら、あらぬ方へ眼を向けていた。晩冬の静かなが庭先にこぼれ、築地ついじの傍の小さい植込みが、鳥でもひそんでいるのか、風もないのに、かすかに揺れ動いている。額田女王は息を詰めていた。姉の鏡女王の言ったことには、全く思い当たることはなかった。自分が中大兄皇子に思いをかけられているというような、そんなことがあっていいであろうか。
額田女王はいつかやみの中で聞いた一つの沓音くつおとのことを思い出していた。自分が左へよけると左へ、右へ避けると右へ、その沓尾とは聞こえている。いかにもゆったりとした沓音である。大海人皇子の沓音とは全く違っている。大海人に皇子のそれはああわただしく畳みかけて来る烈しい沓音であるが、もう一つの沓音は、どんな場合でも、悠揚ゆうよう迫らぬゆったりした響きを持ち、逃げるなら逃げなさい、そんな風にさえ聞こえる沓さばきである。闇の中で相手がいかなる人物か判らなかったが、併し、いま姉の鏡女王はそれについて恐ろしいことをささやこうとしているのであろうか。あの沓さばき以外に、一瞬にして入鹿いるかを斬れるものはないのだ、と。
併し、額田は白昼夢から覚めて我に返ると、冷静さを取りもどした。冷静になると、すべては滑稽こっけい極まることに思えた。大海人皇子の自分に対する恋慕が、世間の人の噂の中で、中大兄皇子のそれと間違えて伝えられてしまったのであろう。何人かの妃を持っている中大兄皇子がどうして自分に、しかも現天皇の側近に侍している自分に、思いをかけるようなことがあっていいであろうか。
額田女王は顔を上げた。
「おっしゃること、何もかも、信じられぬことばかりでございます。よもやそのようなことが、あろうとは存じませぬ。わたくしは姉上さまを御不幸におとし入れるくらいなら、何のためらいもなく宮中のお勤めを辞することでありましょう。御一緒に郷里の大和の、同じ家の同じ部屋で、同じ風の音を聞いて眠ったではございませぬか。深夜同じ鳥の羽音で同じように眼を覚ましたではございませぬか。そうして育った姉と妹が、──」
ここで言葉を切ると、
「大海人皇子さまから再三お招きを受けておりますので、それが間違って伝えられたのでありましょう。でも、私は神事に仕える身、どなたのお招きにも応じられません。これだけははkkりしております」
こう言うと、額田女王は立ち上がった。何かひとりになって考えなければならぬといった思いが、額田にそのような態度を取らせたのであった。
2021/03/10
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