~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (3-04)
大海人皇子から招きを受けている二月末日の観梅の宴までの二日間を、額田女王はこれまでの生涯しょうがいになかった複雑な気持で過ごした。
姉の鏡女王がもう何年も中大兄皇子の愛を享けて居るということは、こんど初めて知った事であり、この一事だけについても考えなければならぬことはたくさんあった。中大兄皇子は何人かの妃を持っていた。姉の鏡女王がひとり皇子の愛情を独占しているわけではない。
鏡女王が郷里大和から都に出て、皇子の傍に移り住みたい気持は当然なことである。
中大兄皇子がいくら鏡女王を愛していても、そう度々大和に出向いて行くことは出来ぬに違いなかった。新政の首脳としての皇子の身辺は、大和にあって鏡女王が想像しているようなものとは全く違うはずであった。皇子の裁断を仰がねばならぬ政務は、朝から晩まで、皇子を追いかけ廻しているのである。姉は、自分の思慕の方が“御思みおもひ”より深いと恋情を歌に述べているが、それは恐らくくらべものにならぬほど深いに決まっている。鏡女王は明けても暮れても、皇子への思慕に身をがしているのだが、皇子の方はそういうわけには行かない。もっと烈しく身を焦がさねばならぬものに取り巻かれているのである。外国の使臣にも会わねばならぬし、蝦夷地えぞち夷人いじんの動静にも心を配らねばならぬであろう。そして夜になると、鏡女王に劣らず皇子への思慕に身を焦がしている妃たちの寝所をもわねばならぬのである。
鏡女王は皇子の愛を享けていることにって、以前とは見違えるほど、誇り高く美しくなっているが、それは大和にあって、ひとり皇子への思慕の中に生きて来たからである。皇子の真実の愛は自分ひとりに注がれていると信じ切っていることが出来たからである。併し、こんど彼女が望むように都に移り住むようなことになりでもしたら、事情は全く異なってしまうだろう。鏡女王の輝くような誇り高い美しさは、どのようなものに変わって行くかわからない。恐らくいまの鏡女王が思ってもみない悲しいものが、彼女の肩を、眼を、頬を、口許を、別のものにしてしまうだろう。他の妃たちが例外なくそうであるように、鏡女王もまた、物哀しさを深く内部に包んだ、冷たく静かな不思議なものを、その面につけるだろう。
そうした姉鏡女王の身の上に思いをせていると、いつも全く別のものがふいに心の中に立ちはだかって来る。姉の口から聞いた中大兄皇子が自分を傍にはべらせたいという巷間こうかんの噂である。鏡女王の言ったことを真実とすると、何人かの人間が彼女にささやいたのであるから、そうしたことが人の口のに上がっていると考えねばならぬ。
中大兄皇子が自分に思いをかけている! 明らかに間違いであるが、併し、姉の口から初めてこのことを聞いた瞬間と同じように、いまもこのことを頭にひらめかすと、たちまちにして、悪寒おかんとも、酩酊感めいていかんともつかぬものが、額田女王を押し包んで来る。
自分は神の声を聞くことを使命としている特殊な女なのだ。汚れもけがれも寄せ付けぬ、寄せ付けてはならぬ女なのである。それなのに、中大兄皇子はそうした自分を!
大海人皇子の場合とは違って、中大兄皇子から声がかかれば、自分はそれを拒むことは出来ないであろう。そうすると、自分はどうなるか。もはや神の声は聞けなくなる。神の声の代わりに、人間の声があらゆる猥雑わいざつなものを伴って、自分に押し寄せて来る。神の声に代って、人間の声が聞こえて来る。
幼い時から縛りつけられていた神聖な呪縛じゅばくは解かれる。神の声は聞こえなくなり、人間の声が聞こえて来る。同感したり、反撥はんぱつしたり、よろこんだり、悲しんだり、嫉妬しっとしたり、呪ったりする。ああ、普通の女になる・・・中大兄皇子の腕が、長い間自分を縛っていた呪縛のなわを一本一本解いてくれる。
額田女王はふとわれに返る! 自分としたことが、何という卑屈な、誇りない思いに心を任せていたことか。こんどは悪寒だけが額田女王を別人にする。
2021/03/10
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