~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
白 い 雉 (3-05)
その日、額田女王は顔も身なりも美しく装った。美しく装うことに、これほど気を使ったことはなかった。大海人皇子のために装ったのではなく、神の声を聞く女として、その誇りのために装たのである
額田女王は幼い時、自分に仕えていたおうなから、美しく装うことにって敵の一兵をも近づけなかった異国の若い妃の話しを聞いたことがあった。その八十何歳かの老婆ろうばは歯の間から音声の漏れるぼそぼそした話し方をしたが、聞いていると、その妃の美しさがありありよこちらの眼に浮かんで来た。額田女王は媼にせがんでは、何回も同じ話を聞いたものであった。
── 金のかんざしも、碧玉へきぎょく頸飾くびかざりも、みな女の武器でございます。眉間や口許にぽつんと小さい点を置くあの花鈿かでんも、これまた女の武器でございます。女は美しく装うことに依って、自分以上の力を持つのでございます。女というものを、神さまはそのようにお造りになっていらっしゃいます。
媼はいつもこういう言葉で、物語を結んだ。額田はいまその媼の言葉を思い出していた。果たして美しく装うことに依って自分もまた異国の妃のように、自分以上の力を持つことが出来るかどうかは判らなかったが、少なくとも心の誇りだけは失わないですまされるのではないかと思った。
約束の時間に迎えの輿こしが来た。額田の輿のあとに、侍女の輿が続いた。館を出るころから気温は落ちた。既にはなかったが、青く澄み渡った空が拡がり、かすかに赤味を帯びた細い線条形の雲が、北西の空を埋めていた。
街は半造りであった。道路は出来ていたが、その道路に沿って並ぶはずの官吏の邸宅は、出来上がったり、出来上がらなかったりしていた。人通りは少なかった。春とは言え、まだ冬の寒さではあり、しかも夕暮れが来ようとする時刻だったので、よほどの用事がない限り出歩いている者はなかった。
街の中心を離れると、ところどころに聚落しゅうらく様に民家が群れていた。その多くが工人の家で会った。近くどこかへ移転しなければならないということで、衆落のたたずまいには一様に落ち着かないものが感じられた。衆落と衆落の間には原野が置かれてあり、到底都の一部であるとは思われなかった。併し、人の通行は街の中心部よりかえって多かった。農夫も、狩人かりうどらしい者も、兵も、役人も、労務者も、どこから来てどこへ行くのか、まばらに歩いていた。
四天王寺に近いところで、輿は停められた。数人の兵と一人の役人らしい人物が立っていた。
額田女王は輿から降りた。額田は侍女と別れて、ひとりだけ役人のあとにしたがった。
役人は鄭重ていちょうな物腰で先に立って案内した。なるほど伽藍がらんはまだ建てられていず、板囲いの普請場ふしんばがあちこちに置かれてあるだけである。
そうしたところを歩かされ、やがて築地ついじが廻らされてあるところに出ると、その門の前で停められた。
「お寒うございますから門の内部にお入りになってお待ちいただきます」
役人は言うと、すぐ帰って行った。
額田女王はかなりの時間、不安な思いを持って、そこに立っていた。うっすらと夕闇ゆうやみが立ち込め始めている。
額田女王は築地門から外に出てみた。その時、馬蹄ばていの音が聞こえた。初め、それはどの方向で聞こえているか判らなかったが、次第にそれが高くなったと思うと、長い築地のしに不意に騎乗の人の姿が現れた。大海人皇子であった。
2021/03/11
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