~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (1-01)
額田女王ぬかたのおおきみの体の異常がようやく人々の眼につき始めたのは、白雉はくち三年の半ばからであった。幸徳天皇の宮廷において、侍女や侍臣たちの間に先ず額田女王に関してのうわさがひろまった。初め噂を耳にした者は、
「そんなことはないだろう。何かの間違いではないか」
例外なくそう言った。額田女王の身辺には、それらしいことを思わせる何ものもなかった。しかし、そんなことがあってまるかといった者たちも、噂の本人と廻廊のすそあたりですれ違ってみると、いやが応でも、その噂が真実であることを認めないわけには行かなかった。確かに腹部には異常があった。小さい生命がその中に宿っているとしか思えなかった。
異常は腹部ばかりではなかった。誰でも擦れ違ったあと背後を振り返らずにはおられなかったその美貌びぼうには、少し違ったものが付け加えられていた。ほほはゆたかになり、眼にはそれまでなかった澄んだ落ち着いたものがあった。ゆたかになったのは頬許りではなく胸乳むなちの辺りも、それとわかるほどの変化を見せている。
人々は額田と擦れ違うと、思わず伏眼ふしめになって頭を下げるようにした。そうさせるまぶしいものを額田女王は持っていた。伏眼にするといやでも自然に異常な腹部が眼に入って来た。
人々は額田女王の腹部の責任者について噂した。中大兄皇子なかのおおえのみこだと言う者もあれば、大海人皇子おおあまのみこだと言う者もあった。中には幸徳天皇に猜疑さいぎの眼を向ける者もあった。併し、こうした高貴な人たちの名を口にした者も、かならずそれを信じているわけではなかった。そうした人たちが、おのの情人を妃の一人として後宮に迎え入れないで、いつまでも宮仕えさせておくということは考えられなかった。他の皇族や若い侍臣立ちの名もささやかれた。五人や六人ではなかった。若い美貌な貴族たちは、誰彼となく一応俎上そじょうにのせられ、あれこれ検討されて、結局はそこから降ろされて、てられた。額田女王の情人として考えると、その資格にどこか足りないものが感じられた。
額田女王のこうした噂があちこちで囁かれ始めると、あたかもそれを察知したかのように宮中から額田の姿は消えた。老女の誰かが額田に注意して、宮仕えを退かせたということであったが、またこれに関しての噂がまことしやかに伝えられた。老女が情人の名をくと、額田女王は明るく笑って、
「それはわたしの方でお訊きしたいことなのです。一体、どなたの思いが、わたしの体をこのようにしたのでしょう。でも、こうなってしまったからには、子供を生む以外、ほかに手だてはございませぬ。子供を生んだら、わたくしに思いをかけて下さった方を探すことにいたしましょう」
そう答えたということであった。老女がこんな子供だましのような額田の返答を真に受けるはずはなかったが、それ以上問い詰めたという噂はなかったので、老女はそのまま引込んでしまったのであろう。老女がそのまま引込んでしまったとしても、それはそれなりに、人々にうなずけた。いささかも不自然には感じられなかった。額田にこのように言われたら、その場における限りは、それを信じて引込む以外仕方なく思われた。額田女王の日常には、実際にそうした事情を予想させるようなすきはどこにもなかった。従って人々はかげでどうしても実態のつかめぬ噂に、いたずらにやきもきするだけのことであった。
それはその筈であった。額田女王自身の口から大海人皇子のことを聞いた姉の鏡女王にしても例外ではなかった。額田女王自身が大海人皇子から求愛されていると言ったのであるから、額田の腹部の責任者は大海人皇子以外の人ではなかろうと、鏡女王は思った。
「おめでとうございます。皇子みこさまでしたら、大海人皇子さまに似て御立派な御器量をお持ちでしょうし、姫さまでしたら貴方に似てにおうような ──」
鏡女王が祝いの言葉を言いかけると、額田はなんの陰翳かげりりもない明るい笑顔を見せて、
「本当にそうお考えでしょうか。わたくしは一夜、梅の花の花弁に体を包まれる夢を見まして、それから体がこのようになりました。陰翳からくににこれに似た話しがあるのを聞いたことがございますが、まことに女体というものは不思議なものでございます」
額田は言った。この場合、姉の鏡女王は宮廷の老女とは違っていた。
「梅の精をお宿しになったというのでございますか。それはそれで、結構なこと。それにしても、大海人皇子さまには御自分の皇子としてお可愛かわいがりいただかないと」
鏡女王は言った。すると、額田はこの場合も、明るいなまめきをもった表情で、
「そうしましたら、梅の精がさぞ歎いたり、悲しんだりいたすことでございましょう。姉さまはわたくしの話しをお信じになりませぬのね。梅の白い花弁が雪のように一面押し包んで参りまして ──」
鏡女王はこのとき、妹が狂っているのではないかと思った。そして妹の肩に手を置いて、
「夢で子供を宿すような、そんなことが ──」
言いかけると、
「御心配なさらなくとも、わたくしは狂ってはおりませぬ。ただ神さまが、わたくしだけに、人間の子供ではなく、梅の子供をお宿させなさったのでございます。でも、人間のわたくしが生みますので、やはり人間の子供が生れることでございましょう。どうせ生みますなら、なるべく男の子を生みたいと思います」
額田女王は言った。こうなると、鏡女王の場合も、宮廷の老女とさして変わるところはなかった。黙って引き退がるよりほかはなかったのである。
2021/03/12
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