~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (1-02)
併し、大海人皇子の場合も同じようであった。大海人皇子は額田女王をそのたくましい腕に抱きしめている時でも、本当に自分が抱きしめているという自信は持てなかった。
寝所においてもそうであるから、寝所以外の場所ではなおのことであった。一体、この女は自分の何であるのか、いつもそういう気持で額田女王の顔に眼をった。
なんじは余が好きか」
大海人皇子は素朴そぼくな質問をする。
「このような満ち足りた、いつまでもおそばに居たい思いを好きと言いますなら」
額田は答える。この返事に不満はなかった。大海人皇子としては充分満足すべき性質のものであった。それでいて、どこかにどうも安心していられぬものがあった。妃として後宮に迎えようとすると、いつも差し出した手を、額田はするりと脱け出して行く。
「わたくしを、なぜそのようなところにお閉じ込めになりたいのでしょう。わたくしは地位も身分もりませぬ。こうして自由な身で、お傍に居たいだけ」
こう言われると、返す言葉はなかった。純粋な愛情だけを振りかざしている。これまた大海人皇子としては、満足しなければならぬ性質のものであった。それでいて、やはり、どこかに気を許していられぬようなものがあった。口では傍に居たい、傍に居たいと言うが、そもそもこれが怪しかった。初めて梅の咲いている里で、二人だけの夜を持ってから、春を迎え、夏を過し、秋も半ばになると言うのに、二人だけの言葉を交わしたのは数えるばかりである。逢瀬おうせのことを、こちらから持ち出して行くと、この場合も、するり、するりと腕の中から脱け出されてしまう。満月の夜とか、七夕のよいとか、まだこの方は日が決まっているからいいが、秋風が吹き始めてからとか、はぎが散ってからとか言われると、恋の逢瀬は漠然ばくぜんと遠いところへ持って行かれてしまう。
と言って、愛情を持っていないかと言うと、そうでもなさそうである。ようやくにして二人だけの夜を持つと、どんなにこの日を待っていたか、どんなにいたかったかと言うような言葉を口から出す。寝所で逢うと、充分艶美えんびであると言うほかはない。
そうした額田女王の腹部の異常に気付いたのは、迂闊うかつなことではあるが、大海人皇子が一番遅かった。宮廷のあちこちで額田の噂が囁かれるよになって、しかも大分ってから、大海人皇子はその噂を耳にした。そして、なるほど、額田は普通の体はしていないと思った。
それから十日ほどしてから、大海人皇子は額田女王をとらえた。捉えたと言う言い方がぴったりする。そんな捉え方であった。外国から使臣のたに新たに造られた丘の中腹にある館の一室であった。何人かの女が使用人として働いていたが、全部異国の服装をして、異国の言葉を使っていた。
この夜、大海人皇子に言った額田の言葉は、鏡女王に言った言葉とほぼ同じであったが、一ヵ所だけ異なっていた。鏡女王に対しては、梅花の精を宿したと言ったが、大海人皇子に対しては、神の精霊を宿したと言った。
「そんなことを言っても、誰が信ずるか、おれの子供だ」
大海人皇子が言うと、額田女王は皇子の胸に優しく取りすがって、
「どうして、当人のわたくしが申し上げておりますのに、それをお信じになれぬのでしょう。どうしてもお信じになれぬのなら、もう何も申し上げませぬ。皇子さまは、御自分だけそうお信じになっていらっしゃればいい。どのようにお信じになろうと、ひとそれぞれの自由でございます。どのようにでもお信じなさいませ。わたくしはわたくしで、いま申し上げたことを信じておりましょう」
と言った。それから二人の間にはすこぶる奇妙な会話が取り交わされた。
2021/03/12
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