~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (1-03)
「俺の子供だ」
「いいえ、神さまの ──」
「神、神と言うな。それほど俺の子供でないと言い張るからには、他の男と情を通じたことがあるな」
すると、額田はこの時だけはきっとなって、
「そうお考えになりますか。本当にそうお考えになりますか。それなら、いっそ死を賜りましょう。死を賜われないのなら、自分で自分に死を命じます」
こう言われると、大海人皇子は世にも美しいものが、本当にこの世から消えて行きそうな子がした。悪寒おかんはしった。思い詰めたらやりかねないという気がした。そして、結局、自分が激情の余り口走ったことは撤回しなければならなかった。撤回すると、美しいものは前以上の美しさで、不思議なことを主張した。
「御自分の御子がそんなに欲しいのでございましたら、いくらでもお作りになればよろしい。皇子さまの御子を欲しがっていらっしゃる方がいらっしゃる筈でございます」
「──」
お名前を御自分でお言いになれぬのなら、代わって、わたくしが申し上げましょう」
「もういい」
尼子あまこの、それからもうおひと方」
この時、大海人皇子は額田の頬を涙が流れ落ちているように思った。すぐ額田が顔を胸に埋めて来たので、しかとそれを認めるわけには行かなかったが、額田の頬に光るものを見たように思った。併し、顔を上げた額田の表情にはそれらしいものはなかった。明るく、優しきく、そしてあでやかであった。
「迂闊にも、皇子さまの御子の代わりに、神の御子を宿しましたわたくしをお許し下さいませ」
「どうして神の精を宿したことが判るか」
「神のお告げがあったのでございます。汝は神の声を聞く者として生れて来ている。終生身を清浄に持さねばならぬ筈である。それなのに、普通の人間界の男女と同じ関係の中に身を置いてしまった。本来なら許すことは出来ないが、自分から求めてそうなったのではないので ──」
「もう、よろしい」
大海人皇子は何となくあとを聞くことは避けた方がいいという気持だった。
「いいえ、申し上げかけたことですから、みんな申し上げてしまいましょう。終りまでお聞き下さいませ」
「よいと言うのに」
「本来なら許すことは出来ないが、不本意にもそのようなことになったので、父親のない子を授けよう。こうおおせられたのでございます。それから、また、このようなことも仰せられました。神の精を宿した以上、もう汝は自分の心を誰にも預けることは出来ない。預けたくても預けることは出来ない。── この心を誰にも預けることは出来ないということは、一体どういうことでございましょう。幾ら考えても、わたくしには、よく判りませぬ」
「うむ」
大海人皇子には何となく判っていたが、口に出すのはいやだった。
「神のお告げのように、わたくしは体には神の精を宿しました。恐らく心も、神のお告げのように、誰にも預けることのできぬものになっているのでございましょう」
額田女王は言った。この時額田は明るいあでやかな顔を上げ、双のひとみを宙の一点に置いていた。大海人皇子はこの時ほど体も心も奪ることの出来ぬ情人の顔を美しいと思ったことはなかった。ふいにむなしいものが心の全面に噴き上げて来た。世にも美しい情人は己が腕の中に居たが、心も体も取り上げられていた。もつとも体の方は、抱きとろうと思えば抱きとることは出来たが、自分の子供を生ますことは出来なかったので、やはり取り上げられていると言ってよかった。
「一体、汝は余に愛情を持っているのか」
何回も口から出した同じ質問を、大海人皇子はこの場合も試みずには居られなった。
「このように満ち足りた、いつまでもお傍に居たい思いを愛情と言いますならば」
額田女王は言った。いつもと同じ返事だった。心を誰にも預けることを禁じられた女としては、このように答えるしか仕方なかったのである。

2021/03/13
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