~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (1-04)
白雉はくち四年の春、額田女王は女児を分娩ぶんべんした。十市皇女とおちのひめみこである。額田女王は誰からもその父について問われなかった。問わせぬだけのものを持っていたのである。し問われたら、神の子であると答えただろうが、その必要はなかった。誰もがいささかの不審な気持も面に出さないで、額田女王を訪い、祝いを述べた。その祝いの述べ方はかつて額田に対した場合を考えると、比較にならぬほど鄭重ていちょうであった。誰の子であるか判らなかったが、高貴な人の子供であるかも知れなかったし、事実高貴の人の子供であるに違いないという考えが一般には広く行われていた。また一部には、會て額田が老侍女に口走った触れずしてもごもるという奇蹟きせきを、そのまま信じて居る者もあった。
他の女ならいざ知らず、額田女王の場合は、そのようなことが起こらないでもないとおうような気がしたのである。また額田女王が大海人皇子に主張した神の御子であるという信ずべからざる話しも、どこかられたのか、一部でまことしやかにささやかれていた。神事に仕える特殊な女性であるから、あるいはそのようなこともあるかも知れないという考えが行われたのである。
一度だけこの問題で困った女があった。若い侍女であった。その時、額田女王は嬰児えいじ乳母うばの手から受け取って、その顔をしげしげと見入るようにしていたが、ふいに、
「この御子はどなたかに似ていますか」
いた。乳母は座を外し、かたわらには若い侍女が一人しか居なかったので、その侍女が答えなければならなかった。
「は」
侍女が答えに窮していると、額田女王はさもおかししうに、いささかのかげりもないあでやかな笑い声を出して、
「お困りか。構わないから言ってごらん。どなたに似ていますか」
「さあ」
侍女はわきの下に汗がにじみ出てくるのを感じていた。
「よく御子の顔を見て、その上で言ってごらん。ほら、こんなにどなたかに似ていらっしゃる。どなたかに似ていらっしゃるが、そのどなたかが思い出せませぬ。わたくしに代わって思い出しておくれ。ほら、こんなによく似ていらっしゃる。眼許めもとも生き写しなら、口許もそっくりそのままです。もう少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せませぬ。一体、どなたでしょう、構わないから言ってごらん」
構わないからと言われても、簡単に口に出来ることではなかった。侍女は一人の男性の名を胸に抱いたまま、じっと堪えていた。額田女王が言ったように、眼許も、口許も似ていた。大海人皇子そっくりであった。しかし、それを口に出すことははばかられた。若し、その名を口にしたら、取り返しのつかないことになりそうな気がした。
「さ、わたくしにだけ、そっと言ってごらん」
その声で侍女は顔を上げた。あたかも自分の内部をすっかり見抜いてしまっていて、それを無理に言わそうとでもするように、額田のいたずらっぽく笑いを含んだ顔がこちらに向けられている。
「お許し下さいませ」
侍女は思わず言った。すると、
「許してくれとお言いなら、許してあげましょう。── 気の小さい人ね」
額田女王は言って、また笑った。玉を転がすようなろうろうとした笑い声だった。
侍女は額田のもとから退がってから、ようやくにして人心地を取りもどした思いだった。体はまだ小刻みに震えていた。侍女はなぜ自分がこのような責苦を受けてなお堪えたのであるから、もう決して自分は生涯しょうがい大海人皇子の名を口にしないだろうと思った。
併し、この若い侍女の、自分でも理解出来ぬ奇妙な決意にもかかわらず、世上でいつか額田女王の生んだ御子の父として、大海人皇子の名が挙げられるようになっていた。
と言って、それが完全に信じられているわけではなかった。一応、そういうことにしておこうといった、そんな大海人皇子への役の振り方だった。そしてそのうわさを裏書きするように、額田女王の生んだ十市皇女が大海人皇子の側近の女官のもとに引き取られたのは、夏の初めであった。併し、このこともまた、十市皇女の父親を決定するために、抜きさしならぬ役割を果したというわけのものでもなかった。こうした事実は、一般の者の知るところではなかったし、知っている者も、問題を解決する重要なかぎには考えなかった。額田女王は依然として、宮中の神事に仕える特殊な女としての地位を持ち続けており、国家的大事件である遣唐船の発遣はっけんを前にして、日々数えきれぬくらいの行事が、額田女王を待ち構えていた。
2021/03/15
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