~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (1-05)
遣唐船発遣の噂が巷間こうかんに流れ始めたのは、白雉三年の秋であった。丁度、額田女王の腹部の異常が人々の眼につき始めたと同じころであった。
── 唐の国へ何百人かの使いが出るそうじゃ。
とか、
── 水手かこが集められているので、何事かと思ったが、そのためであったのか。
と、いろいろなことが噂された。遣唐船の発遣ということは、噂としてはこれ以上魅力のあるものはなかった。唐と言う国がいかなる国か誰も想像出来なかったが、途方もなく大きな繁栄した国であることだけは何となく知っていた。宮殿も寺院も、この国のものとはくらべようもない大きな建物が建ち並び、国も富み、民の生活も豊かである。
都は城壁で囲まれ、街衢がいくは整然と造られてあって、王城の地域と庶民の住む地域とは分けられている。何百という寺々では毎日のように法要が行われ、そこではまた毎日のように学問が講ぜられている。その都に一歩足を踏み込んだだけで、一国のまつりごとを根本から変えてしまうようなものが、いっぱい詰まっている。遣唐船が、そうした先進国の各学問文物をりに行く船である。ただ問題はそれに乗り込む人々である。こんどは誰に白羽の矢が立つか、噂をする人たちには、一様にそんな思いがあった。無事に帰って来れば大変なことだったが、無事に帰れるという保証は何もなかった。
渺漫びょうまんたる大海にぎ出して行くのである。行きは幸い無事に海を渡れても、またもう一度海を渡って帰って来なければならぬ。やがて、そうした大きい冒険に身を挺して行く人々が選ばれるのである。大使が選ばれ、副使が選ばれ、僧侶そうりょが選ばれ、留学生が選ばれ、水手が選ばれる。文明開化の輸入者としての栄光と、再び故国の土を踏めぬかも知れぬ不運が、同時に選ばれた人々の肩に置かれるのである。
遣唐船発遣に関するちまたの噂は、白雉四年の年頭から急に熱っぽいものになって行った。民たちは、自分には無関係な事だとは知りながら、やはりそれに関心を持たずにはいられなかった。
── こんどは二そうの船が出るそうだ。二艘のうちどちらじゃ一艘が着けばいいそうだ。
とか、
── 二艘の船の型が違うらしい。一つは新羅しらぎ船で、一つは百済くだら船だということだ。
とか、そんなことを言う者もあった。また中には、
── こんどはえらい人がみんな乗り込んで行って、向こうの国のやり方を見て、帰って来たら、この国の政をがらりと変えてしまうということだ。賦役ふえきも租もうそのように少なくなり、民の半分は僧侶になってしまうらしい。
そんな噂をする者もあった。
巷の噂は、そのほとんどが根拠のないものであったが、為政者たちが二艘の遣唐船に大きい夢を託し、先進国唐の文化を取り入れ、いっきにこの国の政を変ったものにしようとしていることは、その噂通りであった。中大兄皇子、大海人皇子鎌足を初めとして新政の首脳部は、白雉三年の秋から遣唐船発遣への準備に忙殺ぼうさつされたいたのである。ああでもない、こうでもないと、毎日のように、その人員の編成や、船種の選択や、航路の決定の決定のことが議せられた。そして何日間にもわたっての会議の末に漸くにして決まったことが、翌日くつがえされるようなことも珍しくなかった。
一つ一つが莫大ばくだいな費用と、おびただしい人命に関係することであった。
そもそもこんどの遣唐船の派遣のことを新しく議題として持ち出したのは、中大兄皇子と鎌足であった。これに対してはいろいろな意見があった。新しい政がかれてからまだ数年しかっていず、いまは意をもっぱら内政の充実に用うべき時期ではないかという考え方もあれば新しい政を布くと言っても、このままではたいして変りえはしない、思いきって唐の先進文明を摂取して、真に新政の実を挙ぐべきだという考え方もあった。
中大兄皇子と鎌足は自分たちが言い出したくらいだから、終始、後者の立場に立ち、遣唐使船の派遣を主張した。これに対して幸徳帝はあくまで慎重で、時期尚早しょうそうであると反対した。朝臣たちも二つに分かれ、互に譲らなかったが、徐々に中大兄皇子と鎌足の意見が他を押さえた。ひと口に言えば保守と革新の対立であったが、新政の実力者である中大兄と鎌足の主張が通らないはずはなかった。初めは遣唐船の派遣には反対意見を陳べていた朝臣たちも、いつかそれに賛意を示すようになっていた。ただひとり幸徳帝だけが例外であった。最後まで遣唐船の派遣に反対したが、そんぽ意見は用いられなかった。幸徳帝が天皇とは名許なばかりで、何の実力も持っていない自分の立場を、はっきりと自分も知り、群臣たちにも知らせたのは、遣唐船派遣のことを議した廟堂びょうどうにおいてであった。
2021/03/16
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