~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-01)
唐国に派せられる大使一行の人選が成り、それが発表されたのは三月の初めであった。そして人選の発表と同時に、遣唐船発遣の日取りも発表された。五月中頃なかごろ、好風を得て難波津なにわづを発航すべしという一項が添えられてあった。
この前の舒明二年の遣唐船の場合も、更にその前の遣随船けんずいせんの場合も、いつも人選の発表があってから、船出までには少なくとも半歳あるいは一歳ひととせの期間が置かれてあった。それが今度の場合にいては、選ばれた人たちは、その命を受けてからわずか二ヶ月で、船に乗り込まなければならなかった。
こうしたあわただしいとさえ思われる措置がとられた理由については、一応誰にも容易に推察出来た。人選が成ったら、待ったなしで、その使者たちを船に乗せて、潮の中に押し出してしまうべきだという為政者たちの考えから出たことであった。選ばれた人たちの個人的な支障にいっさし眼をつむれば、この方がいいに決まっていた。これまでのように半歳あるいは一歳の期間を置くと、その間に必ず悶着もんちゃくが起きた。病気を理由に辞退を申し出る者もあったし、八方に手を廻して、解任してもらう者も出た。時には逃亡者まで出た。初め発表された人員の構成が、そのままの形で、船出まで持って行かれることはまずないと言ってよかった。
そうした問題を勘案して、新政の担当者たちは人選の発表と船出との間に、二ヶ月という短い日子にっしを置いたのに違いなかった。為政者たちはこれでよかったが、選ばれた側の人々はそうは行かなかった。自分が選ばれたことを知った時には、乗船の日はもうすぐそこに来ているわけで、自分が選ばれたことの意味を、ろくにみしめて考える暇もなく、各自が船出の覚悟と用意をしなければならなかった。
しかも、こんどの遣唐使の一行は、二つの集団から成っていた。これまでも派遣使節の一行が二船に分乗することはあったが、こんどはそれとは違っていた。遣唐使節団が二つ編成され、それぞれが一船に乗り込んで大陸を目指すことになったいた。一つの遣唐使節団が二船に分乗して行のではなく、それぞれ違った二つの使節団が同時に難波津を船出してゆくわけであった。
こうしたことに対する為政者たちの考えも、また明らかであった。二船のうち、どちらが大陸に着いても、いささかの支障なく任務が果させるようにと、そうしたことを考慮した上での措置であった。従って、これはいかなる避難をも浴びるべき性質のものではなかったが、ただ選ばれた側の者たちには、余り気持のいいことではなかった。二船船出させ、その中の一船だけでも無事に着けばいいといった為政者たちの考えが露骨に見えていた。言葉を換えれば、二船船出させるが、二船とも無事に着くことは望めないだろうという考えが初めから底に居坐っていて、それが実際に船に乗り込まなければならぬ者たちには、妙に釈然とへぬものに感じられた。どうせ決死の覚悟をした上での船出ではあるが、初めから難船を予想されていては立つ瀬がないといった気持であった。
第一遣唐使節団は、大使に吉士長丹きしのながに、副使に吉士駒きしのこまが任命された。そして学問僧として道厳どうごん 、道通、道光、恵施えせ、覚勝、弁正べんしょう恵照えしょう、僧忍、知聡、道昭、定恵じょうえ安達あんだち、道観等、学生がくしょうとして巨勢臣薬こせのおみくすり氷連老人ひのむらじおきな等、総勢併せて百二十一人。
第二遣唐使節団の方は、大使に高田首根麻呂たかたのおびとねまろ、副使に掃守連小麻呂かにもりのむらじおまろ、それに学問僧道福、義向ぎきょう等、これまた百二十人。
第一遣唐使節団の中に学問僧として加わっている定恵は内臣鎌足うちつおみかまたりうの長子であり、安達、道観もそれぞれ名門の出である。また学生巨勢臣薬、氷連老人等も名を知られた豪族の子弟たちであった。
2021/03/18
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