~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-02)
こうした遣唐使節一行の中で学問僧、学生たちは、そのほとんどが渡唐を希望していた者たちで、発表を見て、ようやく希望がかなって晴れの一行に加えられたことをよろこんだが、選に洩れた者の落胆は大きかった。学問僧知弁、義德、学生坂合部連磐積さかいべのむらじいわさか等は、自分たちが選に洩れていることを知ると、直ちに重ねて遣唐使節の中に加えて貰いたいと願い出た。このように、生命をけての渡唐を、情熱を持って希望している者たちもあったが、それは極く一部のことであり、思いがけず自分に白羽の矢が当たったことを不運に思う者が大部分であった。遣唐使節団の構成人員の発表があったその日から、難波津の都は少し違ったものになった。都のあちこちに造られたり、造られつつあった寺々では、渡航の安全を祈念する法要が行われた。鐘は毎日のようにどこかの寺で鳴らされており、時には昼となく夜となく聞こえていることもあった。春から初夏にかけて都の巷々ちまたちまたはなんとなくざわめきたっていた。いろいろな噂が巷に流れた。遣唐船の水子に選ばれた若者が狂ったとか、狂ったのはその若者ではなくて、若者の母親の方であるとか、いろいろなことが言われた。奏した種類の噂がささやかれている時も、必ずどこからか鐘の音が聞こえていた。都は春から初夏へかけて風が強く吹き、毎日のように巷々に砂塵さじんき上げて走った。そうした砂塵の中を、朝廷へ参内さんだいする人たちの群れが毎日のように見られた。身にまとっている礼服から、誰にも彼等が遣唐使節団の一員であることがわかった。巷の男女はそうした人たちに、好奇の眼を向けた。宮中に参内し、正式の任命を受け、別れのさかずきを賜る人たちであった。若い者も居れば老いた者も居た。
春は慌しく過ぎ、若葉のえる頃となり、さわやかな風が吹き始めたと思うと、やがて夏の強いが照り出した。五月に入ると港には遣唐使の一行を唐土に運ぶ二艘にそうの大船が姿を現した。一船は新羅しらぎ様式、一船は百済くだら様式の船で、いずれも去年播磨はりまで建造されたものであった。港は毎日のように、それらの船を見物する人たちで埋まった。
見物人たちはその船を見ながら、どちらの船が安全であるかを言い合った。ある者は新羅船の方をよしとし、ある者は百済船でなければ大海は乗り切れまいと言った。しかし、実際にどちらの船の方が耐久力があり、波濤はとうに対して安全であるかということは誰にも判らなかった。船乗りたちにも判らなかったのである。
こうした見物人たちの無責任な批評をよそに、二艘の船では毎日のように祈が行われていた。そうした祈禱とは別に、毎日のように船大工もはいっていた。いろいろな意見や注文が出るらしく、船大工たちは船縁ふなべりを厚くしてみたり、またもとにもどして薄くしてみたりした。ほばしらの長さや太さもいろいろに変えられた。長くしたり、短くしたり、またもとに戻したりした。
2021/03/12
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