~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-03)
遣唐船の発航が十二日と決められ、その発表があったのは九日であった。それから三日三晩というものは、寺という寺ではひっきりなしに法要が営まれた。
十二日は早朝から、船出する人たちがぞくぞく港へ集まって来た。港にはそうした人たちのために幾つかの仮小屋が造られてあり、船出する人たちはそこで家族の者たちと別れを惜しんだ。別れの酒宴を開いている者もあれば、相擁あいようして泣いている者もあった。波止場には太い綱が張りめぐらされてあり、見物人はそれから内部へ入ることは許されなかった。ところどころに見張りの兵たちが立っていて、ともすれば港へなだれ込もうとする群衆を押したり返したり、怒鳴どなったりしていた。
唐土へ使いする一行が、二船に乗り込み始めたのは午刻ひるであり、完全に乗り込みが終了したのは陽がすっかり西に傾いてしまった頃であった。乗り込みが終わると、波止場の綱は外され、見物の群衆も、波止場になだれ込んで来た。
二艘の大船は、それぞれ百人余の人間を詰め込んで、かなりの間隔をあけて潮の上に浮かんでいた。港の半分はあしで埋まっており、半分が青黒い潮で満たされていた。
そして蘆の間にも点々と澪標みおつくし(水路標の杙)が置かれてあり、潮の中にも同じくいが置かれてあった。おびただしい数の澪標の中の何十本かには、波止場の騒擾そうじょうをよそに、それぞれ申し合わせでもしおたように、小さい鳥がとまっていた。
見送っている人々の眼には、やがて二艘の大船が揺れて見え始めた。群衆の間からはどとめきが起こった。波止場のどよめきにこたえて、二艘の船からもどよめきが起こっていたが、それは波止場の騒ぎに消されて、見送りの人たちには聞こえなかった。
船は揺れていたが、いつまでも同じ場所にとどまっていた。いつまでっても船が動き出さないので、波止場のどよめきはまた次第に収まって行った。そしてすっかり人々が待ち疲れて、解纜かいらんの遅いことに不平を言い出した時、二つの小さい事件が起こった。中年の身なりのみすぼらしい女が。奇声を発して、波止場の長い突堤の上を走り出したのである。女は途中で立ち停まり、奇声を発しては、また走って行った。
女は突堤の行き止まりまで行くと、そこで衣類を脱ぎ始めた。そして全裸になって奇声をあげているところを、三人の兵たちに取り押さえられた。女も、兵たちも、波止場からは小さく見えた。夫か子供かを船に乗り込ませた女だということであった。
もう一つの事件は、老人が引き起こしたものであった。これも見ずぼらしい身なりをした老人で、群衆の間にはさまっていたが、突然、
── あの船は沈むぞ。あの百済船の方に乗った者は降りるがいい、あの船は沈むぞ。わしにははっきりと見える。今までは見えなかったが、今ははっきり見える。横波をかぶって、檣は真っ二つに折れ、船首の方から潮の中へ沈んで行くぞ。
老人は大声で叫んだ。老人の声が異様だったので、そのあたりに居た人たちはみな老人の方へ顔を向けた。勿論もちろん老人の姿が誰にも見えるといえるわけではなかったが、その声だけは聞こえた。陰に籠った嫌な声であった。何事が起こったのかと思って、一瞬、みなが聞き耳を立てたので、その老人の声だけが、そのあたりの群衆の頭上に降った。
── あの船は沈むぞ、乗っている者は早く降りるべし、あの百済船はのろわれている。早く降りるべし。檣は真っ二つに折れ、船首の方から潮の中に沈んで行くぞ。
たちまちにして老人は引きずり出され、怒声と怒号に包まれた。兵たちが四、五人けて来て半殺しにされかかっている老人を救い出し、どこかに連れ去って行った。
── あの船は沈むぞ。
老人は兵たちに連行されながらも、陰気な声で叫んでいた。老人をののしる声がそこここに聞こえている時、波止場の遠くの方からどよめきが起こった。人々は一斉に二艘の船の方へ視線を投げた。いつか大使吉士長丹の乗っている新羅船は動き出していた。澪標の杙杙の間から、大きな船体がゆっくりと移動して行くのが見えた。そして少し間隔をあけて、こんどは百済船の方が動き出すのが見えた。
波止場はどよめきで包まれていた。どよめきは、いう果てることもなく沸き起こっては、たかまり、そしてそれが消えないうちに、新しいどよめきがとって代わっていた。
この時、波止場を埋めている群衆の耳には届かなかったが、都の寺という寺からは、鐘がいっせいにき鳴らされていた。そして都の僧尼にそうという僧尼は、どこかの寺で営まれている法要の席につらなり、一心不乱に経をしていたのである。
2021/03/22
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