~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
わ だ つ み (2-04)
二艘の遣唐船の発航を、中大兄皇子なかのおおえのみこ大海人皇子おおあまのみこ鎌足かまたり等政府の首脳陣は、港の北側に迫っているなだらかな丘陵の中腹から見送っていた。
中大兄皇子は終始一語も口から出さず、暮色の垂れ込めかけた海上に眼をっていた。丘の中腹から見ると、海洋の潮に身を任せた二艘の遣唐船はひどく小さく、無力に見えた。この国の若い人材という人材は、みなあの二艘の小さな無力に見える船に詰め込んでしまったのである。無事に帰って来るかも知れなかったし、帰って来ないかも知れなかった。中大兄はも二艘の船を送り出してしまったことで、ほっとすると共に、はげしい不安と烈しい疲労を感じていた。
併し、鎌足の方は強気だった。鎌足は二艘の船に詰め込んだ人材の選択について、多少あやまったかも知れないという思いにとらわれていた。どうせ大きな冒険を冒して大洋へ送り出すなら、船にはもう少し大ものを詰め込むべきであったかも知ればい。できるなら自分が行きたいくらいである。自分が行けないので、自分の長子を代わりに乗り込ませたのであるが、今にして思うと、もう一級上の人材をりすぐるべきであったかも知れない。
「今年はもう致し方ありませぬが、来年新たにもう一艘送り出してみましょう」
鎌足は言った。
「もう一艘!?」
中大兄皇子が驚いて言うと、
「年が改まりましたら早い方がよろしゅうございましょう。高向史玄理たかむくのふびとげんりを ──」
鎌足は言った。高向史玄理を派遣しようという意味らしかった。
「いかにも」
中大兄は周囲の者がいせいに振り向いたほどの大きな声を出した。鎌足の強気にあてられた形で、弱気は一瞬にしてふっ飛んでいた。こんどは、中大兄皇子の眼には、もう見えるか見えないほど小さくなっている二艘の船は、今までのように小さく無力には見えなかった。未知の大陸へ限りなく大きい宝物を採りに行く決死の船であった。小さく無力であろうはずはなかった。いかなる風も浪も、この二艘の船の行く手をさえぎることは出来ない筈であった。
いまの中大兄と鎌足の取り交わした鋭い言葉を耳さとく聞き取ったのか、
「次の船には、大海人が乗り込みましょう。玄理だけでは心もとない」
大海人皇子は言った。大海人皇子はこの時、本当にそう思っていたのである。そして出来るなら額田女王もまた積み込んで行こうと。
2021/03/22
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